ドキドキしない愛情と、戻ってきた彼女
彼と川沿いを歩いていたとき、遠くで船の音がした。
「珍しいかも。こんな時間に」
彼と私は、船着き場のほうへ向かった。
あの空いていた杭に、小さな船が結ばれていた。
その船を見た瞬間、島の空気が、ふっと明るくなった気がした。
誰も何も言っていないのに、ずっと空いていた場所に、ようやくあるべきものが戻ってきたようだった。
船から降りてきた女の子は、風で乱れた髪を押さえながら、どこか不安げな顔をしていた。
「ただいま」その声は少し震えていたのに、島にとてもよく馴染んだ。
彼女が島に降り立ったとき、砂浜の沈む音が、妙に大きく響いた気がした。
「帰ってきたんだ!」
「久しぶり!」
その場にいた住人は、嬉しそうに彼女に近寄った。
けれど彼だけが、すぐには動かなかった。
彼の目線は、ずっと彼女をとらえていた。
ほんの少しだけ、唇が開いた。でも言葉は出なかった。
そして、我に返ったように私のほうを見た。
少し気まずそうな、困ったような顔だった。
「……おかえり」
彼はそう言って、彼女のほうを向いた。
彼女は、私のほうをちらりと見た。
それから、遠慮がちに彼へ近づいた。
「外に出て、分かったの」
彼女は、彼をまっすぐ見た。
「やっぱり、あなたがいいなって。ドキドキとは少し違うのかもしれないけど、人として、家族みたいに、結婚したいくらい大切なんだって」
その言葉を聞いた瞬間、私は、彼女が彼の心のいちばん奥に入っていくのを見た気がした。
困惑した表情だった彼が、どこか救われるような、泣きそうな顔になったのを、私は見てしまった。
恋愛として好きだと言われたからではない。
人として、結婚したいくらい大切だと、彼女が言ったからだ。
彼が前に私へくれた言葉を思い出した。
恋愛対象としてだけじゃなく、人間として愛されている。
そういう安心があったら、依存するのかな。
あのときの彼の声が、彼女の「家族みたいに」という言葉と、ぴたりと重なった。
けれど同時に、私は少しだけ息が詰まった。
「家族みたいに」
一か月だけこの島に住んだ人の口から出るには、その言葉はあまりにも大きかった。
長い時間をかけて、相手の弱さも醜さも見た人だけが、ようやく触れていい言葉のように思えた。
でも彼女は、それをまっすぐ彼に差し出した。
まるで、もう何年も彼のそばにいた人みたいに。
そう思った瞬間、彼の手が、ほんの少し握られているのが見えた。
そして、彼は私のほうをちらりと見た。
その目は、私に何かを尋ねているように見えた。
もう一度、彼女と向き合っていいのか。
それとも、「彼女じゃなくて私にして」と、私が言うのを待っているのか。
その瞬間、私は、自分が彼の迷いの中に置かれているのだと感じた。
けれど、二人の関係に割って入るには、そこからさらに一歩、彼の内側に入らなければいけない気がした。
私には、それができなかった。




