空いた杭と、彼の好きだった人
それから私は、島と外の世界を行き来するようになった。
何かあるたびに、彼に話す前提で出来事を見るようになった。
自分が本当に傷ついているのか、それとも傷つく準備をしているだけなのか、だんだん分からなくなっていった。
仕事が終わって少し暗くなったころ、私はいつものように船着き場からぽよよん島に帰ってきた。
夕暮れ時で、空と空気がオレンジ色に染まっていた。
沈みかけた夕日が半分だけ海に隠れて、海の上にオレンジ色の道ができたみたいだった。
そして、その光の先に、一本の杭があった。
夕日に照らされているからか、今日はなぜか、その杭から目が離せなかった。
「ここの杭だけ、いつも船がないですよね」
船着き場の端で、住人が濡れた縄を巻いていた。
他の住人より少しだけ、潮の匂いがした。
濡れた縄を手の中で輪にしていた指が、そこで止まった。
住人は、懐かしいものを見るように、その杭を見つめた。
「ああ。昔、短いあいだだけ、この島に住んでいた人がいてな」
「短い間?」
「うん。一か月くらいかな」
住人は、結びかけの縄を指にかけたまま、少し黙った。
話の続きを私に渡していいのか、確かめるようにこちらを見た。
「その人、凪さんに言ったらしい。あなたといても、ドキドキはしないって」
私は、返事ができなかった。
「でも、人としては本当に大好きだって。結婚したいくらい、大切だって」
住人は、海の向こうを見ながら話した。
オレンジ色の夕日が、少し揺れているように感じた。
「外の世界も見てみたい。ほかの人と会って、自分の気持ちを確かめたい。でも最後には戻ってきて、あなたと結婚したいから、待っていてほしい」
そこまで言うと、住人は手の中の縄を、ゆっくり巻き直した。
「そう言ったんだと」
私は、「ドキドキしない」という言葉の中に、残酷さを感じていた。
触れたいと思ってもらえない辛さを、私は知っていたからだ。
「それで、凪さんは?」
「送り出した」
「待っていてって言われたけど、約束にはしなかったんだと思う。たぶん、そこで一度、ちゃんと別れるつもりだった」
私は何も言えなかった。
「待っていて」
その言葉は、お願いというより、杭みたいだった。
やわらかい地面だからこそ、音もなく深く入っていく。
どこまで刺さったのか、打った本人には見えない。
私は、その杭から目を離せなかった。




