第六話
六話目です。よろしくお願いします。
「きりーつ、れーい」
やる気のないかけ声と共に、多くの椅子が音を立てる。
窓の向こうの天気を反映するかのように、教室に薄暗い空気が立ち込めるなか、その日の授業は始まった。
(ヤナギ……)
イノの耳には授業の内容など入ってきてはいない。
彼の頭にあるのは、先日のヤナギの怯えようと、彼女のうなじにある絵柄のことだけだ。
(あれは、一体なんだったんだ? ヤナギはどうして……)
分厚い雲が空だけでなくイノの心も覆っていく。
彼はヤナギのことを何も知らない。彼女が何に怯え、何に悲しむのか。
(聞いてみよう。そうしなければ、きっと何も始まらない)
彼の決意は授業が終わったあとも、一切揺らいでいなかった。
今にも降りだしそうな曇り空の下、帰り道を急ぐ。
最近、青空を見ていないと彼は思う。
「ん?」
彼が違和感に気づいたのは、玄関の扉に手をかけたときだった。
玄関の鍵が開いている。
「ヤナギ?」
イノの脳裏に一抹の不安がよぎる。
何の障害もなく開かれた扉。家の中には奇妙な空気が漂っていた。
靴を脱ぐ音。床がきしむ音。ふすまを開ける音。
普段は気にならない音たちが、イノの鼓膜を過剰に刺激する。
「……いない」
台所にも、居間にも、風呂場にも、ヤナギのいた気配はない。
まるで、彼女の存在が最初から夢だったかのように。
「――ッ!」
玄関に置いてあるビニール傘が目に入った瞬間、何かに背中を押されるように、イノは家を飛び出した。
空を覆う雲は薄くなり、夕日が少し顔を覗かせている。
「ヤナギ!」
イノはあてもなく走った。
どこにいるかなんて見当もつかない。それでも彼は走り続ける。
胸の内にある焦りに似た不快感が、彼を突き動かしていた。
(どこに行った? そう遠くには行っていないはず。誰かにさらわれた? いや、でも――)
そこまでたどり着いて、イノの足は止まる。
(……出ていった?)
あの日のヤナギの怯えようと共に、その結論に到達してしまったイノの思考。それとは対照的に、雨雲は彼から離れていく。
(別に不思議じゃない。ヤナギを無理やり連れて帰ったのは俺だ。別に助けを求められたわけでも……)
あの日、雨を見つめていたヤナギの姿を思い出す。
帰る家も、家族もいない。彼女の言葉に嘘はなかった。
「俺、なんでヤナギを」
「おーい! アオシぃ!」
声のした方に振り向くと、息を切らして走ってくるゴドウとミトトギがいた。
「ゴドウ……ミトトギ……」
「す、すごい形相で走っていたので……お、追いかけてきちゃいました……」
「何かあったのか?」
心配そうな顔で見つめる二人を前に、イノは押し黙る。
ようやく口を開いたのは、二人の息が整ったあとだった。
「ヤナギがいなくなった」
「なっ!?」
「ど! どどどどどどどうしどうしま……け、警察! 警察に電話を!!」
「ま、待てツキナちゃん! 落ち着け! オレらとヤナギちゃんの関係を説明できない! それは最後の手段だ!」
夕日に染まる二人の顔は、ひどく慌てふためいていた。だからこそ、余計に際立つ。
「……俺は」
自分がひどく冷静であることが。
「俺は、ヤナギが出ていったんだと思っている」
感情を抜きにして、俯瞰的にこの状況を見ている自分。
ゴドウやミトトギのように、ヤナギを心の底から心配していない自分。
なぜあのときヤナギに手を差し伸べたのかすら、イノは思い出せない。
「ヤナギを無理やり連れ帰ったのは俺だ。俺との暮らしが嫌になって出ていったのなら、納得はできる。家には荒らされた形跡もなかったし、一番可能性があるのはヤナギが自分で――」
言い終わる前に、ゴドウの両手がイノの両肩に置かれる。
少し見上げる形のゴドウに、怒りの表情はない。
ただただ真剣に、まるで心を見透かすように、イノの瞳を見つめている。
「落ち着け、アオシ。お前までパニクったらどうしようもなくなる」
「……俺は落ち着いている」
「いいや、パニクってる! これ以上ないくらいな!! 見たことないくらい顔真っ青だぞ!」
イノがミトトギの方に視線をやると、首が取れんばかりの勢いでうなずいていた。
「アオシとの暮らしが嫌になったなんてこと、絶対にない。傍で見てきたオレには分かる」
至って冷静に、しかし力強く、ゴドウは言葉を続ける。
「ヤナギちゃんがいなくなったんだ。動揺するのも無理はない。けどな、それであの子の気持ちまで決めつけるのは違うだろ。そういうのは本人に聞いてみる、な?」
雨雲は彼らの頭上を通り過ぎ、イノも夕日の下へと投げ出された。
「……あぁ、分かった」
「分かりましたぁ!!」
絶叫するミトトギ。
驚いて二人が目をやると、彼女は天に向かって高々と右手を上げていた。
「わ、わた、私! 私分かっちゃいました! あのときいた車! 車ですぅ!」
「ツキナちゃん落ち着いて! 全然言ってること分かんないから!」
「ミトトギ、どういうことだ」
未だ興奮冷めやらないミトトギは、自分の頭の中を整理するように、手をぐるぐると回しながら口を動かす。
「いつもみたいに帰ってたらイノくんの家の近くに見慣れない車が! 黒いハイエースが! すごい勢いで走っていったんです!! もしかしたらあれでさらわれたのかも!!」
「さ、さらわれたかどうかまでは分かんないけど、それしか手がかりがないなら、それを頼るしかないな」
『さらわれた』という新たな可能性。
ヤナギという少女が何者なのか、いなくなったのは彼女の正体が関係している。理由はないが、彼はそう直感した。
「とりあえず手分けして探そう。ヤナギちゃんを見つけたらすぐ連絡。いいな?」
ゴドウの指示に、二人は無言でうなずく。
イノは未だ雨雲が残る方向へと走りだした。
読了、ありがとうございました。
またよろしくお願いします。




