第三話
三話目です。よろしくお願いします。
「ただいま」
玄関の引き戸はガラガラと音を立てて開く。
かつては二人で暮らしたこの家。育ての親である祖父が海外にいる今、あるのはイノの存在だけ。
湿度を含んだ木からの甘ったるい匂いが、帰宅した彼を迎える。
「入っていいぞ。えっと……」
「ヤナギ。ただのヤナギ」
「そうか。俺はイノだ。イノ アオシ」
「ん」
土間に腰を下ろし、濡れて張り付いた靴下を脱ぎながら、彼はだんだんと冷静さを取り戻していた。
思わず連れて帰ってしまった小学校低学年くらいの少女。誰かに見つかればとても言い訳はできない。そもそもただの家出少女の可能性も捨てきれない。そうなれば自分は誘拐犯だ。
そんな考えが彼の脳内を巡っていた。
「待て、ヤナギ」
「……なに?」
揺れる青髪と、こちらを見つめる金色の瞳。
『入ってよい』という言葉に従い、泥まみれの素足で家に上がる彼女をどうするか、彼はすぐに決断した。
「とりあえず身体を洗おう」
「わっ」
そう言うと、彼はヤナギを風呂場まで担いでいった。
慣れた手つきでお湯を沸かし、彼女を風呂に入れ、着替えを用意する。
一連の作業のなかで、イノはこれからについて考えていた。
(あのときは思わず連れて帰ってきてしまったが……この状況、やはり警察に連絡するべきだろうか)
窓ガラスと曇りガラスに、水滴がポツポツと音を立てながらぶつかる。
「イノ」
「なんだ?」
「……ん、なんでもない」
ときおり、風呂場の中からイノを呼ぶ声がする。
脱衣所に備えつけられた洗濯機を回しながら、彼は何度かそれに答えたものの、毎回特に話は広がらない。
(警戒しているのか。無理もない。居間に戻ろう)
新しいTシャツとタオルを扉の前に置き、その場を後にする。
自分もタオルで髪を拭きながら、畳の上に腰を下ろす。
色あせた障子、木製のローテーブルとくたびれた座布団、縁側に至るガラス戸、普段は気持ちを落ち着かせてくれるそれらが、今は他人のように彼を見つめている。
手の中にあるスマートフォンは、様々な相談窓口の番号を教えていた。
「警察、相談所……ん?」
パタパタと、何かが廊下を走っている。
家中をあてもなく駆けまわっていたその音は、次第に大きくなり、やがて彼の下までやってきた。
「ぐっ!?」
髪を乾かしていないどころか、服も着ていないままのヤナギが、イノのみぞおち辺りを目がけて飛び込んできた。
唐突な一撃に不意を突かれたものの、イノは難なく体勢を立て直す。
「おい、ちゃんと身体を――」
言い終わる前に、イノはヤナギの身体が震えていることに気づく。
身体からは湯気が立ちのぼっている。なのにどうして彼女は震えているのか、その答えはすぐに分かった。
「……おいてかないで」
意味もなく他者の存在を確かめ、それがなくなればなりふり構わず走り出してしまう。
イノはそれが何かを知っている。
「悪かった」
彼は持っていたタオルで、彼女の頭をなでる。
かつて、自分が一番してほしかったように。
「なに、してたの」
「あぁ、ヤナギのことを警察に相談しようと……それより早く服を着ろ。風邪を引くぞ」
「だ、だめ!!」
イノの腹辺りにうずめていた顔を上げ、ヤナギは叫ぶ。
その表情には、悲しみというより、何かへの怯えが表れていた。
「だめ!! 警察、だめ!!」
「い、いや、だが」
「ぜったいだめ!! おねがい!!」
「あ、あぁ……分かった。警察には言わない。安心してくれ」
確証はない。けれど、イノは彼女が何か並々ならぬものを抱えているということを悟った。
そして、そんな彼ができることは、彼女の身体を拭くことだけ。
「ん?」
そして、ヤナギのうなじの辺りに何かを見つける。
「……あざ?」
名刺サイズのそれには、『あざ』と呼ぶにはあまりに意図的な絵柄が――傘を持つ人間が描かれていた。
◇
「さっきも言ったが、昼食は机の上に置いてある」
「ん」
「夕方には帰ってくる」
「ん」
イノは普通の高校一年生である以上、平日は自分の高校に通わなければならない。
当然、先日拾った謎の少女を同伴させるわけにはいかない。
「じゃあ、行ってくる」
「……ん」
何か言いたげな彼女を一人で留守番させる。そこに罪悪感はあるが、仕方がないとイノは自分に言い聞かせる。
外はいつ降り始めてもおかしくない曇り空。傘立てから黒い傘を掴み、彼は家の扉を閉めた。
「今日も来やがったな、イノ アオシ! 今日こそテメェを――」
(やはり俺だけの力では限界がある。しかし、警察に言おうにもヤナギは嫌がるし……)
相も変わらず絡んでくる不良を素通りする。
もちろん、彼らがそれで引き下がるはずもなく、イノの肩が掴まれた。
「待てやこら! 無視とはいい度胸じゃ――」
「うるさい」
「ごぼらぁ!?」
みぞおちに蹴りを一発。不良を濡れたアスファルトに沈め、彼は再び自分の思考に戻る。
「よっ、今日もご苦労だな!」
同じく声をかけてきたゴドウの前も素通りする。
(じいちゃんに連絡しようにも繋がる可能性は低い……どうするか……)
「アオシ? おーい、聞こえてないのかー?」
「うるさい」
「うおっ!?」
顔面に目がけて飛んできた右ストレートを、ゴドウはすんでのところで避けた。
「あっぶねぇ……」
「ゴドウか。悪い」
「いや、急に声かけたのも悪いし、別にいいけど……いつにも増して悪人面だな。なんかあったのか?」
「少し、考え事をしてただけだ」
「ふーん?」
イノがちらりと横をうかがうと、昨日と何ら変わらない様子のゴドウが歩いている。
近づきすぎず、離れすぎず、一定の距離を保って歩くゴドウは、まさにいつも通りの姿だった。
「なんだよ、オレの顔になんかついてるか?」
「いや……」
いつもより長く感じる通学路を、重い足取りで歩いていく。
教室に到着し、授業が始まったあとも、頭の中はヤナギのことでいっぱいだった。
「はぁ……」
ポツポツと雨粒が教室の窓を叩き始める。
三階から見える景色は、昨日と同じような空模様だった。
「……ん?」
それは昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った直後。
イノの視界が、見知った青色を捉えた。
「なッ!?」
思わず立ち上がるイノ。椅子がガタっと大きな音を立てる。
(ヤナギ!? どうしてここに……)
開きっぱなしの正門から、男物のTシャツを着た少女が校内に入ってくる。
それを見るや否や、イノは教室から飛び出した。
「お、アオシ!」
「ゴ、ゴドウ……」
しかし、廊下に出たイノの前に、ゴドウが立ちふさがる。
「ちょうどよかった。昼飯食おうぜ」
「いや、今はちょっと……」
「なんだよ。あ、もしや既に誰かとの予定があるのか!?」
「そういうわけじゃ――」
どう断ればいいのか、イノが迷っている間にもヤナギは校内へと歩みを進めてくる。
彼女が学校側に見つかれば、問題になることは明白だった。
「……すまん!」
一秒でも早くヤナギを回収しなければならない。
今のイノにはゴドウを振り払う時間も、階段を使って外に出る時間すら惜しい。
「は? おい! アオシ!?」
結果、彼が取ったルートは窓の外だった。
「――ッ!」
三階の窓から飛び降り、落下の途中で二階の窓枠を掴む。
同じ要領で二階から一階へ。そして地上へと降りていく。
イノの並外れた身体能力だからこそ可能な芸当だった。
「アオシいいい!?」
三階から聞こえるゴドウの声を振り払い、イノは正門へと急いだ。
「ヤナギ!」
所在なさげに門の周辺をうろついていたヤナギは、イノを見つけると小走りで近づいてきた。
「イノ」
「どうして着いてきたんだ。家で待っているように言っただろ」
「……ごめんなさい」
未だ謎だらけの少女、ヤナギ。だが、彼女が孤独を恐れていることはイノも知っている。
申し訳なさそうにうつむく彼女に、彼はこれ以上何か言う気になれなかった。
「……とにかく、ここにいると面倒なことになるんだ。一度家に帰って――」
「イノ、くん?」
覚えのある遠慮しがちな声が、イノの背後から聞こえる。
「ミトトギ、どうしてここに……」
振り返ると、そこにはおどおどとした猫背の少女、ミトトギがいた。
「え!? いや、その! いつもみたいに――じゃなくて! たまたま! 本当にたまたまイノくんを見ていたら! イノくんが三階から急に飛び降りて、なんか、すごいことして外に出ていったのを見て、あの、その、変な意味じゃないんです! ただ……心配で……ごめんなさい」
明らかにイノより動揺しているミトトギは、一方的にまくし立てたあと、勢いよく頭を下げた。
「いや、別に謝る必要はないんだが。俺の方こそ心配かけて悪かった」
「イノくんが謝る必要ないです! 私が、その、す……すきでやっているので……」
「そうか」
ミトトギはヤナギに気づいていない。イノは彼女と会話をするなかで、すぐにそれを察知した。
このまま自分の身体を陰にすれば、ヤナギを見つからず門の外まで連れていけるかもしれない。
「やーっと追いついた! なんで急に飛び降りたりしたんだよ……って、誰その子!?」
そんなイノの期待は、追いついてきたゴドウによって完膚なきまでに砕かれた。
「え? ……えぇ!?」
「はぁ……」
読了、ありがとうございました。
またよろしくお願いします。




