5. 机は一つ
昨夜の文は、助言ではなく、私からの申し込み。〈三年の掟を、私のほうから破りたくなりました。九日目の夕方、店の机でお会いできませんか。〉けさ小僧へ渡した紙は、昼には店主が写す。
夕方の玄関で、ヒルケと待っていると、クヴィリンが鞄から封筒を出した。添えられた札の端が、夕方の光に白い。小僧は、札ごとこちらへ差し出す。
「まいど! 奥様の分と、店主からの札だぜ。裏口の分は先に置いてきた。札はなくさないよう、封筒に挟んできたんだ」
私が受け取るより早く、ヒルケが札へ顔を寄せる。
「あたしにも聞かせてくださいよう。何て書いてあるんです?」
ヒルケのほうへ札を傾け、小声で読む。〈机の申し込みは受けた。九日目の夕方じゃ。店主〉ヒルケが、ぱっと顔を上げる。
「九日目の夕方に、お会いになるんですか! あの文通の方と! 奥様が毎晩お返事を書いてる、あの方とですよね?」
クヴィリンが身を乗り出した。
「しーっ! 掟! 名や家の分かることは、外で大声にしちゃいけないんだぜ。おいら、札を届けに来たんだ!」
廊下に出した机で、ヘンドリクの筆が止まる。書きかけの紙を、文字に触れないよう重ねて立ち上がった。足は書斎のほうへ向かう。
封筒を開けば、〈一輪と言われたのに、選べなかった。妻が笑う。つられて、僕も笑った。〉
紙になら、笑ったと書ける。つられて、の一語が、この人らしい。昨夜、文箱の蓋に落ちた花びらは、そのままにしておいた。笑った、とある字の上に、紙を傷めないよう掌をそっと重ねる。
「ええ、お会いします。今度は、お顔を見てお話ししたいのです。ヒルケ、私も大きな声になりそうですから、お静かにね。嬉しくても、そっとですわ」
小僧が鞄の口を閉じた。ヒルケは口元を両手で覆い、その手の間から訊く。
「三年もお手紙だけで、よく飽きませんねえ! あたしなら、言いたいことを忘れちゃいそうですよう。紙だけで、そんなに長くお話しできるんですか?」
「紙なら、返事の前に考えられますもの。でも、考えているうちに、お礼まで次の晩になってしまうこともございますわ」
「お礼まで次の晩? あたしだったら、口が先に言っちゃいますよう。笑ってくれたときも、お礼はお返事待ちなんですか?」
「だから、お会いしたいのです。あなたは待たせませんわね。両手でお口を押さえても、声が先に出ておりますもの」
ヒルケは、両手をさらに口へ押し当てる。
「奥様まで笑わないでくださいよう! あたし、口はちゃんと隠してます。漏れてるのは声だけですよう!」
「声がいちばん困りますのよ。私まで笑ってしまうでしょう。今度は、その場でお礼を言いたいのです。笑い声が聞こえるうちに」
札の角を、封筒の内側へ入れた。硬い端の感触が、掌に残る。笑い声には、返事を遅らせたくない。ヒルケと玄関を離れ、ヘンドリクを追う。
◇
開いた書斎の扉から、夫の机が見える。生成りの封筒が、開けたまま置いてある。執事が届けた私の申し込みの写しだと、私だけが知っている。ヘンドリクは、机の扉寄りの端に立っていた。私の足音を背に、夫へ申し立てる。
「閣下。奥様は九日目、書店で例の男と会われます。会合に知れれば、婚姻は解かれましょう。いまお止めになれば、先方へは私が、角の立たぬようお伝えいたします」
敷居を越える。ヒルケは扉の外で止まった。隠していることにされる前に、自分の口で言う。
「私、文通の方と、書店でお会いする約束をいたします」
ヘンドリクが、勢いよくこちらへ向き直った。
「閣下、ご本人が認めておいでです! 私の思い違いではございません。書店で、男と会うのです。お聞きになりましたか?」
夫は、机の封筒から私へ目を戻す。眉間には、笑いの名残もない。
「……契約に書いていない」
ヘンドリクは、白い手を机の端に置いた。
「閣下! 十年お仕えして初めて申します。これは家の恥です! 奥様を迎えたばかりで、ほかの男と会うことをお許しになるのですか?」
夫が、ヘンドリクへ顔を向ける。
「恥になるかは、俺が決める」
私は顔を上げた。
「秘書官殿。隠れて会うつもりなら、ここへ言いには参りませんわ。聞こえたことを、私のいない所で決めないでくださいませ。私の言葉を、家の恥に変えて運ばれるのは嫌です」
ヘンドリクの、左だけ上がる口の端がひきつる。なめらかな声の、途中だけがはねる。
「奥様は、何をしに会うのです? 文を交わすだけでは足りず、お顔まで見たいとおっしゃるのですか?」
「会ってお話ししたいのです。書いたことは、もうずいぶんありますから。私、まだ顔を見てお礼を申し上げたことがございません。それまで恥とおっしゃるなら、私も困りますわ」
札を封筒ごと握り直す私を、夫が見ている。眉間の皺は、そのまま。
「会って、どうする?」
「名乗ります。三年、名乗らずにきた方ですから。二人そろって店の机に着いたら、初めて自分の名を言えるのです」
「……それから?」
「その先は、机で申します」
相手はあなたです、と言うだけなら短い。けれど、聞きたくないと言われた夜には飲み込んでしまった。名乗り合うのは机で、と掟は言っている。握り直した札の角が、掌の中で硬い。
ヘンドリクは書類を揃えた。紙の端は、ぴたりと重なる。声だけは、もう元の調子へ戻る。
「それでは会合への説明にもなりません。奥様のお申し出を、私がお伝えできる形で、ご判断をお願いいたします。言葉が整わぬまま、お伝えするわけには参りません」
「私の返事は、私に訊いてくださいませ。会合で問われるなら、自分の口で答えます。秘書官殿に任せるお話ではございませんわ。私の言葉は、きれいに整えていただかなくても結構です」
夫が椅子を少し引いた。書類のある側ではなく、扉へ向けてヘンドリクを見る。
「九日目の夕方、馬車を一台。馭者には下町までと」
ヘンドリクは、揃えた書類を抱え直す。
「馬車の手配は承りますが、ご同行のお方も決める必要がございます。奥様お一人を、男の所へお送りするのですか?」
夫は私から目をそらさない。耳の縁だけが、少し赤い。
「二人乗る」
ヘンドリクが扉の外のヒルケを見る。私は、握っていた札の角を伸ばせずにいた。
「旦那様も、同じ馬車にお乗りになりますの?」
ヘンドリクは夫へ向き直る。
「では、閣下と奥様の馬車として整えます。書店までのお供に支障のないよう、私から伝えてまいります」
ヘンドリクは頭を下げる。お止めください、と始めた用が、馬車の手配へ変わっている。夫が机の封筒へ目をやった。開いた紙には手を置かず、こちらを見る。初夜より近い所に、その顔がある。
「俺も、そこへ行く約束がある」




