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4. 一輪と言ったのに

 昨夜の問いには「旦那様の、本の扱い方を知りたかったものですから」と答えた。そのあと私が書いた返事は、短い。〈花を一輪、贈りなさい。一輪です。〉


 夕方も遅く、玄関でヒルケが手紙箱を開ける。鍵の動きを追っていたヘンドリクは、空いた両手を後ろで組んだ。盆も鍵もない手が、背中に隠れる。


「閣下は、女性に花を贈ったことがおありでない。贈り物の手配は十年、私の役でして。奥様への花も、言いつかれば私が選びます。お好みが定まっておられなくとも、形にはできます」


「旦那様が、ご自分で選ばれたことはございませんの? 秘書官殿は、贈る方と受け取る方、どちらのお好みで選んでいらしたのでしょう?」


 ヘンドリクの口の端が、左だけ上がる。仕事の話になると、返事に迷いがない。


「双方にご満足いただくのが私の役でございます。花の名、色、香りまで、お届け先に応じて整えます。差し出す方がお困りにならないように。閣下のお手を煩わせずに」


 ヒルケから封筒を受け取る。〈鍵を預けた。妻が訊いたのは栞のことだ。ご隠居の小言を思い出した。〉


 その小言の主は、いま手紙箱の前に立っている。紙を開くと、ご隠居、の三文字に折り目がかかっていた。私はそこだけ、そっと伸ばす。


 階段で水が揺れる音がした。庭師と下男が、花桶を抱えて上がっていく。花が揺れるたびに、濡れた茎の匂いが降りてくる。ヒルケも首を傾ける。


「奥様のお部屋の方へ行きましたよう。花を抱えて階段を上るの、あたし初めて見ました。水差しとはずいぶん違いますねえ。運ぶ方まで花に顔を埋めてますよう」


「私の部屋へお運びになるのでしたら、そのままお願いします。けれど、書き物の机には桶を置かないでくださいませ。花を置くつもりで、水までいただくのは困りますわ」


 花桶から水が跳ねた。下男は布で階段を拭き、また抱え上げる。ヘンドリクは行き先を目で追った。その両手は、まだ後ろにある。


 晩の食堂で、夫の席だけが空いている。末席のヘンドリクが書類を揃え終えたころ、ようやく夫が入ってきた。


 袖に土がついている。温室(おんしつ)の湿った土の匂いが、皿の湯気に混じる。袖口には、乾きかけた土までこびりついていた。ヘンドリクが椅子から腰を上げる。


「閣下、花の御用でしたら私が。お袖にまで土がついております。お言いつけがあれば、庭師への指示も置き場の手配も済ませましたのに」


「花の手配は、俺がした」


 ヘンドリクの口が閉じる。そばに控えていた執事が咳払いをした。


「旦那様が温室へお入りになったのは、十年ぶりでございます」


 夫は皿へ目を落とす。汚れを内側に隠すように袖口を畳み、食べ始める。私は、その土の残る腕を見た。


「旦那様。玄関から上がっていく桶を見ましたけれど、水もたっぷりございましたわ。私の部屋に、何をお運びになりましたの?」


「食後に分かる」


 夫の匙が、皿の端へ寄る。私は匙を動かしながら、夫の袖口に目を戻してしまう。折り目から、土が少し覗いている。


       ◇


 夜、私の部屋の扉が開かない。夫とヒルケの前で押すと、隙間から茎と花びらがこぼれた。押した分だけ、甘い匂いが廊下へあふれる。


 中を覗けば、花。足を入れる所にも花。寝台も机も、花の間からやっと見える。扉の前から夫を見上げた。耳が赤い。


「選べなかった。だから、全部にした」


「こんなに……! 旦那様、私の寝台も机も花の向こうですわ! これでは、私が花の部屋を間借りすることになります。部屋の主まで替えないでくださいませ」


「花の数は、契約に書いていない」


 顔を寄せると、花の匂いがいっそう甘い。一輪と書いたのは私で、選べなかったのはこの人だ。こちらへ向いた茎を拾った。口を開いて、閉じる。花を抱える腕には力が入るのに、夫へ顔を向けられない。私は扉の隙間を見た。


「……花瓶が、足りません」


 夫も隙間を見る。花瓶を増やしても、このままでは寝台へたどり着けない。私は床に落ちた花を膝に集めた。花びらが、膝の上で重なる。


「では、実際に試しましょう」


 ヒルケが廊下へ蝋燭を置く。床を照らす火のそばで、私は花束の結び目をほどいた。ほどけた茎を揃え、夫へ向き直る。


「一輪ずつ、好きかどうか申し上げます。旦那様は、覚えてくださいな」


 夫も床に座った。さっきまで見上げていた顔が、いまは花の向こうにある。ヒルケが桶を扉から引き出し、空いた所へ花を広げる。最初の一輪を、私は取る。


「これは、好きです。匂いが軽くて、机のそばでも気になりません。朝、書き出す前に見える所へ置きたいですわ。これなら、本を開いていても目がいってしまいそうです」


「……覚えた」


「これは匂いが強すぎて、本が読めません。でも、色は好きです。玄関にあったら、帰ってくるのが楽しみになります。顔を寄せるのは、少しだけにしますわ」


 夫が花を分けた。茎が転がらないように置き直す。折った袖がずれ、土のついた所がまた見える。夫はそれを畳み直した。


「覚えた」


 好き、強すぎる、好き。私が選ぶたびに、夫の手が花の山を行き来する。蝋燭が少し短くなるまで、それが続く。ヒルケが山を見比べ、夫へ顔を向ける。


「旦那様、いまので三十七本目ですよう! あたし、どっちの山だったか分からなくなりましたよう。花より、お返事の方がいろいろですよう。本当に全部、覚えてます?」


「三十七本、全部だ」


 ヒルケが目を丸くする。夫はいまの一輪を、ためらわず好きな花の山へ置いた。私は口元を花の陰に隠す。


「ふふっ。失礼いたしました。私の好きなものだけで、こんなに床が埋まるとは……。花を選ぶお話でしたのに、私の欲張りが見えてしまいますわ」


「自分は間違えたか?」


「いいえ、合っております。私も、自分の好きな花を全部は知りませんもの。見せていただくと、選べますわ。好きだと申し上げてから、私はこれが好きなのだと分かるんですの」


 次の茎を受け渡すとき、指が触れた。茎は冷たい。土で少しかさつく手から、花の匂いがする。


 私が花を持ち替えるあいだ、夫の手は開いたままで待っていた。茎を渡し終えても、膝へ戻した手には、あのかさつきが残っている。私は余った花へ目を移す。


「余った分は屋敷の皆さんへ。秘書室にもお願いします。秘書官殿は花のお好みに詳しいそうですから、よい置き場をご存じですわ。机に置く花も、きっと迷わずお選びになります」


 様子を見に来たヘンドリクが、花の山の前で止まった。ヒルケは抱えられるだけの花を持ち、一階の秘書室へ下りていく。ヘンドリクは花へ顔を寄せかけ、口を開く。


「奥様、私の部屋へは香りの弱いものを。花には少々、弱く――いえ、お気遣いには及びません。書類の置き場はこちらで整えます。私から皆へ、お礼を申し伝えます」


 言い終えたとたん、くしゃみが一つ。ヘンドリクは口を押さえ、ヒルケを追って階段を下りる。花の山が半分になるころ、ヒルケが駆け戻ってきた。抱えた花が、足の動きにつれて揺れる。


「奥様ぁ! 秘書官さま、くしゃみが七度ですよう! お部屋が花で埋まって、机を廊下へ出してます! あたし、花を届けたはずなんですけど、机のお引っ越しになりましたよう!」


 階下から、もう一つ響いた。夫の肩が揺れる。さっき覚えた花を、膝の上で転がしながら。


「……はは」


 夫は自分の声に驚いたように、口を押さえた。赤い耳を、蝋燭の火が照らしている。ヒルケの腕から、花がこぼれる。


「だ、旦那様が笑いましたよう! あたし、花まで落としてしまいましたよう。奥様、聞きました?」


「ええ。……聞きましたわ」


 夫の笑い声を、私は花びらだらけの膝の上で聞いた。

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