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3. 折らない頁

 昨夜の返事には、〈憎む暇があるなら、紙の上の男にできなくて、同じ屋根の下のあなたにできることを一つ探しなさい。〉と書いてある。


 夕方の玄関で、生成りの封筒が窓の光を透かしている。持っているのはヘンドリク。銀の盆には手紙箱の鍵が載り、封はまだ閉じたままだ。私は封の端を確かめ、顔を上げる。


「紙の上にしかいない相手の手紙が、そんなに気になりますの?」


「お前の男がどこの誰か、会合の前に知っておくのは俺の務めだ。九十日目の親族会合は、当主の婚姻を解けるんだぞ。お前が黙っていても、問われるのは閣下だ。公爵家に嫁いでまで、お前は同じことを続けるのか?」


 ヘンドリクは封筒を傾けた。表には会員の番号だけ。店主さんが写す紙も、届ける封筒も、誰のものでも同じだ。光へかざしても、名は浮かんでこない。私は紙を挟む手の下へ、自分の手を差し出す。


「私宛てですから、私が受け取ります。秘書官殿のお務めが、封筒を透かすことだとは存じませんでしたわ。お預かりいただくのと、調べていただくのは別です。封が閉じていればよい、ということではありませんの」


 ヒルケの足音が階段を下りてくる。書斎から夫が出ると、その後ろを執事が通った。


 ヘンドリクは手早く封筒を盆へ戻す。夫に向ける声には、もう角がない。封筒の角を盆の縁に揃える手にも、乱れがない。


「閣下。奥様の文通は家名に障ります。お止めください。先方へは、閣下に代わって私が申します。奥様のお顔を損ねず、穏便に済ませられます。奥様ご自身が口になさるより、角も立ちません」


「契約に書いていない」


「では一条、書き足せば済みます。文通をお控えいただくだけです。奥様へのご配慮も承知しております。ですが、会合で問われてからでは、私も閣下をお守りしかねます」


 夫は紙へ目を向けず、鍵を見た。返事は短い。


「書かない」


 夫は盆から鍵だけを取る。銀の上で、小さな金具が鳴った。封筒には触れず、低く言う。


「紙の上の男には、できないことだ」


 その男は、いま鍵を持っている。私は言えずに鍵を見る。前掛けの上でヒルケの両手が止まると、夫はその手の上へ鍵を差し出す。


「妻宛ての物は、今日から君が受け取ってくれ」


「あ、あたしがですか!? 奥様の分を、あたしが箱から出してお渡しするんですね? 字は読めませんけど、奥様のお顔は分かりますよう!」


 鍵がヒルケへ渡った。ヘンドリクは盆を水平に保ったまま、空いた所を見つめている。


「……十年、私がお預かりしてきた鍵です。閣下のお言葉も、お届け物も、遅れぬよう私の手でお運びしてまいりました。これからも、滞りなくお届けできます」


「十年、苦労を掛けた」


 夫は書斎へ戻っていく。助言の主が私とは知らないまま、同じ屋根の下でできることを、この人なりに選んだらしい。


 鍵を預けてほしいとは書いていない。


 ヒルケは鍵を握ったまま、盆の封筒を取って大切そうに差し出した。私は封を開き、折り畳まれた紙を広げる。〈妻が隣の席に来た。パンの味が分からない。その妻に、僕の手は第七条のうちだと言われた。〉


 薄い紙の折り目に、窓の光が通る。そこを破らないよう、私は手のひらを添える。昨夜、パン籠を寄せた手を、ただの条文にしてしまった。言われた、の一語に責める調子はない。夕方の光は温かいのに、紙を支える手からは力が抜けない。昨夜なら言えなかった礼を、今夜こそ言おう。


 鍵を握ったままのヒルケが、私の顔を覗く。


「奥様? お顔が、さっきと違いますよう。悪い知らせですか? あたし、渡すのを間違えました?」


「いいえ。渡す相手は合っていますわ。今夜、言うことが一つ増えただけです。お礼を、紙に書かずに言いたいのです。うまく口にできるとよいのですけれど」


       ◇


 晩の食堂では、夫の右に私の皿がある。末席のヘンドリクは、書類を脇へ寄せながら食べている。給仕が焼き林檎を置くと、焦げた皮の匂いが立った。やわらかな湯気が、隣の皿からも上がる。


 昨日言った、いちばん好きな所。その濃い色に匙を添える。夫は皿を見ている。私は隣へ顔を向けた。


「昨夜は――」


「昨夜?」


 林檎の皮に、匙の先を入れる。礼も詫びも、紙になら書ける。隣の顔を見たとたん、始める言葉が見つからない。


 その手が本をめくる所なら、思い浮かぶ。私は匙の先へ目を戻し、言える方の問いを選ぶ。


「……旦那様は、栞(しおり)をお持ちでないとき、読みかけの頁をどうなさいますの? 続きを探すうちに、お話が頭から逃げてしまいません? 角を折って、印にしたりなさいます?」


「折らない。三年前から、一度も折っていない」


 三年前、夜番さんは角を折ると書いてきた。本が泣くからおやめなさい、と長い小言を返した覚えがある。


 林檎をすくう手を止めた。夫は皿の脇に手を置いたまま、続ける。


「友人に叱られた。本が泣く、と」


 私は皿の脇の手を見る。私の小言は、三年もその手に残っていた。匙の上の林檎は少しずつ冷めていく。甘い匂いがするのに、まだ口へ運べない。


 夫の横顔を、もう少し見ていたい。さっきの小言の主について、私は尋ねる。


「そのご友人は、どんな方ですの? 本を泣かせた、とお叱りになるくらいですもの。大切な本をお持ちなのでしょうね。本のお話をすると、止まらなくなる方なのかしら?」


「年寄りだ。七十は過ぎている」


「七十ですって? お顔をご覧になったことがおありですか? 文だけで、お年までお分かりになるものかしら? 叱る方は皆、お年寄りだとお思いですの?」


 夫がこちらを見る。私は匙を置いた。思いがけず大きな音が鳴る。小言の文は母の文例集を真似たけれど、年まで借りた覚えはない。夫は短く答える。


「小言が長い。三枚のうち二枚が小言だ」


「二枚も! 残りは本のお話ではありませんの? 大切に読んでほしくて書いたのなら、小言だって無駄ではありませんわ。少しくらい、お礼を差し上げてくださいませ。ご友人をそんなに年寄り扱いなさるなんて、あんまりですわ」


「だが、あの人の言うことは外れない」


 言い返すための口が、閉じた。焦げた皮を匙で押すと、温かな蜜が出てくる。隣の皿にも、同じ皮の焦げた林檎。私は匙を握り直してから、返事を選ぶ。


「……それは、ようございました。お小言だからと、途中でおやめにはならないのですね。最後まで読んで、そのとおりになさるのですもの。ご友人は、きっと喜んでおられますわ。ふふっ」


 末席で書類の角を揃えていたヘンドリクが、顔を上げた。澄ました声に、今度は小さな引っ掛かりがある。


「閣下にご友人が? 十年お仕えして、初耳です。お付き合いのお手配でしたら、私が承りますが。閣下にお手間は取らせません。ご用がございましたら、いつでもお申し付けください」


 夫は答えない。耳が赤い。喜んでおられるなどと、自分で言った言葉まで熱くなる。私が皿の縁へ目を落とすと、夫がこちらを見た。


「きっ、君は、なぜそれを訊く?」

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