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2. 二人分の食卓

 朝の水差しが、机の上で光る。侍女のヒルケは赤毛のお下げを揺らしながら、こぼさずに水を注いだ。水の細い筋に、朝の光が揺れる。


 太い腕には、重そうな水差しも軽そうだ。昨夜書いた返事を、私は封筒へ滑り込ませる。〈夕食の席で、奥方の好物を一つ訊きなさい。命じずに、訊くこと。〉


 栗色の目が封筒を覗き込む。文字のある方へ顔を傾け、ヒルケが尋ねる。


「あたし、字が読めないんですよう。何て書いたんです? 奥様、朝の水より先にその封筒をお手に取るんですねえ。あたしが注いでる間も、ずっとそっちを見てますよう。そんなに楽しいお便りですか?」


「お友達が、奥方を迎えたばかりですの。夕食で好物を訊きなさい、と。こちらがよいと思うものを並べても、お相手の好きなものとは限りませんもの。相手の好きなものは、相手に訊くのがよいでしょう?」


 ヒルケの丸い鼻に皺が寄る。水差しを抱え直して、声を上げる。


「よその旦那様の世話まで焼いてるんですか? 奥様のお食事だって、まだお好みを伺えてないんですよう。あたしも訊いてないのに、よその旦那様に先を越されちゃうんですか?」


 封を閉じる手が、少し止まった。ここでは私も、好きなものを言っていない。封筒を持ち直し、ヒルケと裏口へ下りる。


 小僧のクヴィリンが帽子を取ると、麦わら色の髪が目に掛かる。肩から下げた革の鞄は、膝まで届いている。鞄の重さを肩で受け直し、クヴィリンが笑った。


「まいど! 奥様の分、集めに来たぜ。晩に書いたのを朝に集めて、昼には店主が写すんだ。届くのは夕方だぜ。おいらがちゃんと店まで運ぶからな」


 封筒を鞄に入れる手は、迷わず動く。紙の端が鞄の口に当たらないよう、少し広げてくれた。宛先の名など書いていない生成りの紙を、私は見送る。


「皆さん同じ封筒ですのね。私が出すものと届くものも、いつも同じ。鞄に入ると、もう区別がつきませんわ。名を訊かれても、クヴィリンは教えませんの?」


 日に焼けた鼻が上を向く。大きな耳の間で、黒い目がきらりとした。クヴィリンは暗唱するように答える。


「筆名だけ。店主が写す。名乗るのは、二人そろって店の机で。掟は掟だぜ。おいら、偉い旦那様に訊かれても同じことを言う! よその名は、おいらの口からは出さないぜ」


 背後に、磨いた靴の音。通りかかったヘンドリクが、鞄から私へ目を移した。


「朝から書店の小僧ですか? 嫁いでいらしたばかりの奥様が、熱心なことですね。お入り用の品は、私が手配いたします。私室の荷ほどきはお済みでしょうか?」


 私は封筒の消えた鞄から、顔を上げる。


「文箱はもう机に置きましたわ。先に使うものですから、手の届くところがよいのです。しまっておく必要はございませんもの。お運びくださって助かりますわ」


 それ以上は言わず、ヘンドリクは廊下へ戻った。鞄を持ち直す小僧に、ヒルケが裏戸を開ける。


        ◇


 夕方、玄関の手紙箱の鍵が鳴る。ヘンドリクは封筒を盆に載せ、角まで揃えて差し出した。


「お待たせいたしました、奥様。この箱のお届け物は十年、私がお預かりしております。お受け取りに、お手間は取らせません。閣下のご用も、滞らせたことはございません」


「手早くなさいますのね。朝に出したものが、夕方にはお相手の所に届きますのね。封を開くまでの間も、楽しみですの。私も三年、その早さに助けられておりますわ」


 受け取った紙は、まだ外の風に冷えている。〈妻には三年来の文通相手がいた。僕は、その男が憎い。だが文を禁じる条を、契約に書かなかったのは僕だ。〉


 憎まれているのは、これを書いた本人だ。笑いそうになる口の内側を、そっと噛んだ。封筒を裏返しても、文面を内へ折り込む手がなかなか進まない。


 ヘンドリクが盆を引く。揃えた封筒の角より、今は私の顔を見ている。


「奥様。お顔が緩んでおいでです。ここからでも、はっきり分かります。よほど愉快なお相手とみえますね」


「ええ。たいへん正直な方ですの。お返事を書くのが楽しみになりますわ。秘書官殿にも、お一人いらっしゃるとよろしいのに」


 廊下の端には、裏口で生成りの封筒を受け取り、書斎へ入っていく執事の背が見える。けさ私が出した返事も、同じ紙に写されて、あの背についていく。


       ◇


 晩の食堂は、十二人掛けの長卓だ。上座の夫、その右には書類を広げたヘンドリク。私の皿は下座の端に置いてある。燭台の火が卓に映り、皿の縁だけが近くで白く光る。


 夫の声を待つには、遠い。湯気の向こうで、ヘンドリクが給仕を止める。十年座ってきた席で、ヘンドリクがなめらかに言う。


「閣下は食事中にお話しになりません。奥様へのお取り分けは私にお申し付けを。お声を張っていただかなくても結構です。料理長にも、私からお伝えいたします」


 夫が膝の上へ目を落とす。顔を上げるまで、私は皿の縁を見ていた。ようやくこちらを向いた夫が、口を開く。


「あぁ、その、なんだ……」


「はい」


 オッとはコホンと咳払い――。


「こっ、好物を言え。……いや、教えてほしい」


 ヘンドリクが、書類から顔も上げずに口を挟む。


「奥様のお好みでしたら、閣下に代わって私が料理長へ。お好みは私が漏れなく承ります。閣下のお食事をお止めするまでもございません」


 夫は、ヘンドリクへ目を向けた。


「黙れ、俺が訊いている」


 昨夜、私が紙に載せた問いが、卓の向こうから来る。命じずに、と書いた所で、夫の口がいったん閉じた。皿の湯気が頬に届く。焦げた皮まで甘い、母と分けた焼き林檎の味。私は皿の縁から手を離す。


「焼き林檎です。皮の焦げたところが、いちばん」


 夫はうなずく。答え終わっても、皮の焦げた甘さが口に残っている。ヘンドリクが書類へ目を戻すと、夫の目は私の手元へ来る。


「あー、なんだ……。そ、その男は、今日も書いてきたのか?」


「はい。夕方に。昨日の晩に書いてくださった分ですわ。すぐ返事をしたくなるような、弱音まで隠さない、たいへん正直な文でしたわ」


「ふんっ! 信用できない男だ」


 燭台の火が、夫の耳を照らす。火から顔を背けても、耳は赤い。さっき読んだ弱音を思い浮かべながら、私は返す。


「お会いにならずに悪く仰るのは、困りますわ。旦那様と、たいへん意見の合う方です。ご自分の決めたことは守る方ですし、夕食も大切になさいます」


「俺と? 会ったこともない男だ!」


「そこまで嫌なお顔をなさらなくても。ご自分に厳しいところなど、そっくりですわ。人には許して、ご自分にはなかなか許さないところも」


 夫の眉間に、縦の皺。林檎より先に、その皺の扱いを覚えてしまいそうだ。


「……気に入らん」


「まあ。その方も、ご自分のことをよくそう仰います。私のお友達ですのよ。あまり悪く仰らないで、と書きたくなりますの。旦那様にも、同じことを申し上げますわ」


 夫の皿と私の皿。その間にある空席を眺めた。これでは、好物の話をするのにも声を張らなければならない。


「では、実際に試しましょう。この距離で、夕食を共にしていると言えますかしら? お食事のたびに大声を出すのは、少し恥ずかしいですもの。私の声は、そちらまで毎晩届きますかしら?」


 皿を持って卓の長さを歩く。夫の右へ寄せると、ヘンドリクの書類の端が持ち上がった。ヘンドリクはその端を押さえ、私の皿を見つめる。


「……そこは、俺の席です」


 私の皿へ、夫が目を向けた。


「契約に書いていない。席は、君が決めていい」


 ヘンドリクは書類を抱える。さっきまで私の皿があった、下座の末席(まっせき)へ移っていく。歩きながらも、書類の端はきちんと揃えている。空いた椅子を引き、私は夫の隣に腰を下ろした。座面は、まだ人の温みを残している。


 夫が黙ってパン籠を寄せる。温かなパンの匂いが、空いた皿の上まで届く。受け取ろうとすると、パン越しに、籠を持つ手が重なった。


 隣からなら、小さな声でも届く。ありがとう存じます、と言えばいい。紙の上なら三枚でも書ける礼が、ここでは出てこない。先に動いたのは、別の言葉だ。


「……第七条のうち、ですものね」


 パン籠の縁に掛かったままの夫の指は、食事が終わるまで動かなかった。


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