1. 紙の上の男
「お前を相手にする男など、紙の上にしかいない」
一月前、春の昼。下町の梟の書店で、婚約者のヘンドリクは額の一房を払った。香油をつけた金茶の髪が、戸口の光をはね返す。本の紙の匂いに、香油の匂いが混じった。
「俺は侯爵家の令嬢を貰う。次の公爵になる男に、本と手紙ばかりの子爵の娘は釣り合わん」
空色の目が、私の封筒を見下ろしている。笑うと左だけ上がる口の端。いつもなら、その笑いに合わせて笑えた。いまは、顔を上げるだけで精いっぱいだ。
封筒が床へ落ちる。紙の角が石に当たる、乾いた音。本の並ぶ静かな店で、その音だけがやけに大きい。拾う前に、どうして、と言えばいい。人の言い回しなら一行で裏まで読めるのに、自分の口から出るのは別の言葉だ。
「……承りました、ヘンドリク様」
小さな手で封筒を拾う。小指の横の墨の染みが、生成りの紙に重なった。折れた角は、押してもすぐには戻らない。
帳場から、綿のような白髪が上がる。四方へ跳ねた毛の間で、店主パンクラーツの長い眉も動く。封筒の角を伸ばして、私は帳場へ寄せた。
「店主さん。今日の分を、お願いします。途中で少し折れてしまいましたけれど、中は汚しておりませんから。いつもどおりに、写してくださいませ」
墨で黒い指先が封筒を受け取る。丸い眼鏡を鷲鼻に掛け直す。飴色の目が私を見た。猫背の小さな店主は、帳箱の蓋を閉める。
「わしは写すだけじゃ。……じゃが今日のは、急いで写そう。お前さんは、ここで茶でも飲んでいくがよい。折れた角なら、わしが伸ばしておくでな」
「お茶は、また今度に。……今日のは、早く届けていただきたいものですから。角が戻らなくても、中の言葉が読めれば、それでよいのです」
ヘンドリクは上着の裾を払う。もう用は済んだ、という顔で戸を押した。
「紙の男によろしくな。せいぜい慰めてもらえ。お前の長話に付き合うには、紙がちょうどよかろう。返事が来るまで、好きなだけ待てばいい」
奥の書棚で、本が落ちる音。頭巾を被った背の高い客は、拾わずに立っている。
◇
破棄から一月。そのあいだに公爵家から申し込みが来て、兄が受けた。相手は元婚約者の上司で従兄、冷酷公爵と呼ばれるゼーヴェリン様。当主は二十九の誕生日までに妻を持つ、というのが公爵家の家憲だそうだ。三か月だけの契約結婚。
その婚礼を終えた夜――。
寝室の鏡台に、左の肩へ垂らした胡桃色の髪と深緑の目が映る。三つ編みの端を直し、木の文箱を机へ置いた。蓋を開けると、積み重ねた紙の端が顔を出す。
嫁入り道具は三年分の手紙と、母の文例集。見慣れたものがあるだけで、よその机にも手を置ける。扉が叩かれ、入ってよいかとの低い声に「お入りください」と返すと、見上げるほど背の高い夫が燭台を持って入った。
痩せた肩が火の前を横切る。後ろへ撫でつけた銀の髪から、前髪が落ちる。燭台の火が、机に置かれた紙を照らしている。
「これは契約だ。三か月たてば、君は自由になる」
「……拝見いたします。お約束は、紙で頂くほうが安心ですもの。守るべきことが書いてあれば、私も迷わずに済みますから」
花嫁の名はアネリーゼ。私の名の上に七条が並ぶ。互いの私室には許しを得て入ること。九十日ののち、私が望めば別れられ、王都の書店を一軒、私の名で贈ること。そこまでは秘書官の整った字だ。
第七条だけ、違う手で書き足してある。夕食は毎晩、共にとること。紙の端から顔を上げた。
「第七条だけ、字が違いますのね。なぜ、夕食を? 公の席で並ぶほかにも、毎晩お付き合いするのですか? お食事まで、私がお邪魔してよろしいのでしょうか?」
高い頬骨の上で、眉間の縦の皺が深くなる。薄い唇が動くまで、燭台の火だけが揺れている。私は紙を読み直すふりで、夕食の字をなぞった。
「最悪の一日にも、温かい夕食を一つ数えよう。友人に、そう教わった」
それは三年前、私が顔も名も知らない文通相手に書いた、母の口癖だ。
紙の端を握る手から、力が抜ける。食い込んでいた紙の角が、いまさら痛んだ。燭台の火が、ひとつ大きく揺れる。筆名は夜番。何でも書ける親友は、締めにいつもこの句を使う。
三年前には〈顔を知らないから書ける。どうか名乗らないでほしい〉と書いてきた人。読書通信では、店主が全部を同じ紙へ写し、同じ封筒で届ける。私が知っているのは言葉だけだ。
紙を押さえる夫の右手の中指にも、私と同じ所に筆だこがある。母の声を思い出すはずの言葉を、いまはこの唇から聞いている。文箱へ伸ばしかけた私の手が、途中で止まった。
紫紺の目が、開いた文箱の束へ移る。夫の手は紙の上に留まる。
「それは?」
「三年来の文通相手からの手紙です。嫁入りに、これだけは持ってきたかったものですから。私には、置いてこられないものなのです」
夫は文箱から私へ目を戻した。皺が消えない。
「……男か?」
「はい」
「文のことは、契約に書いていない」
言えそうなところから言うしかない。文箱に手を添えた。
「旦那様、その方は――」
「その男の話は、聞きたくない」
説明の先が口に残る。あなたです、の一言が、舌の上で行き場をなくす。扉を叩く音に夫が返事をすると、銀の盆を持つヘンドリクが現れた。
仕立てのいい袖から白い手が出ている。盆の上には生成りの封筒。夕方に届いたものを、夫のいる今、持ってきたらしい。盆を傾けずに歩く姿は、いかにも手慣れている。
「奥様に、例の書店から。今夜のうちにお目に掛けるべきかと存じまして。閣下に代わって、お届けに上がりました」
「秘書官殿。紙の上の相手からの手紙です。こちらまで運んでくださいな」
盆が戸口で止まる。ヘンドリクの目が夫へ動いた。
「……奥様の私室に入るのは、契約の第二条に障ります。こちらでお渡しする方が安全でございます。お約束を損なうわけには参りませんので」
「許しがあれば入れますわ。起草なさったのは秘書官殿でしょう? 私、いま許しを差し上げておりますけれど。私の手紙ですのに、私のお許しでは足りませんの?」
「閣下! 初夜に、このような男の文をお側へ置くことを、お認めになるのですか?」
夫は封筒へ手を伸ばさない。声だけが低く届く。
「ヘンドリク。妻の手紙だ」
「……失礼、いたします」
「机の上へ。文箱の隣にお願いしますわ。そこなら、毎晩取り出せますから。私が受け取るものを、私の届くところへ。それだけのお願いです」
盆がようやく机まで来る。封筒を置いたヘンドリクは、頭を下げる。
「……奥様」
「ご苦労さまです、秘書官殿。明日の夕方も、よろしくお願いいたしますわ。お慰めは紙の相手に頼めますので、秘書官殿には、お運びいただければ十分です」
出ていく背を見送った。夫も扉へ向かうが、敷居の手前で立ち止まる。燭台の明かりから外れかけた耳が、赤い。
「その男より、俺のほうが近くにいる」
自分の部屋へ戻る夫に、返事ができない。近くにいる。知っている。紙一枚ぶんより、ずっと。閉まった扉のこちらで、私は封筒を開けた。封の端をめくる手が、いつもの続きを探している。
宛名はご隠居。店主の見慣れた字が並ぶ。夕方に届くのは、相手が前の晩に書いたものだ。〈明日、妻を迎える。妻と親しくなる方法を、教えてほしい。〉締めには、夕食を一つ数えたことも。三年、夕方ごとに見てきた締めだ。教えてほしい、の字の前で、さっきの眉間の皺を思い出す。
相談を送ったのも、嫉妬しているのも、夫本人だ。
笑ってはいけない。封筒で口元を隠した。鏡台に映る右の頬に、えくぼが出ている。紙の端がかすかに震える。閉まった扉へ、小さな声で告げる。
「旦那様、あなたの恋敵はあなたです」




