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6. 書庫の鍵

 昨夜の返事には、〈選べないなら、奥方に訊きなさい。屋敷で好きな場所を、一つ。〉と書いた。


 夕方、玄関でヒルケが手紙箱を開ける。外の風に冷えた封筒を広げると、店主さんの字が並んでいる。紙の冷たさが手に移るより先に、口元がゆるむ。


 〈九日目の夕方、店の机へ伺う。同じ夕方、妻もその店で男と会うらしい。店に、机は二つあるのだろうか。〉


 同じ店の、同じ夕方。妻の約束と自分の約束を別々に数えて、夫は机を二つ探している。机を増やしても、私も夫も増えないのに。


 余白には、〈店主註 机は一つじゃ。〉。とうとう封筒で口を隠した。こらえた笑いが紙を震わせ、ヒルケが赤毛のお下げを揺らす。


「奥様、また笑ってますよう。三階の奥の、開かずの扉が開いたみたいなお顔です。あたし、あの扉が開いたところは見たことないんですけどねえ!」


「三階の奥ですの? 開かない扉と私のお顔を並べられたら、笑ってよいのか困りますわ。開いたところをご存じないのに、似ているなんて」


 ヒルケが笑う横で、廊下の机から鍵束の音がした。屋敷じゅうの合鍵を十年預かる白い手が、輪を持ち上げる。ヘンドリクは私に鍵を見せるように、手首を返す。


「書庫でございます。先代の紙の束を積んであるだけで。鍵は十年、私の鍵束にございますが、開ける御用もございません。奥様がお気になさるようなお部屋ではございませんよ」


 紙の束。そのひと言で、閉じた扉が気になった。三年分の紙を文箱に詰めて嫁いできた身には、聞き流せない。開ける用がないと言われるほど、まだ読んでいない頁の重なりが目に浮かぶ。


 晩の食堂では、夫の右に私、末席にヘンドリク。給仕が皿を置くと、夫は膝へ目を落とした。顔を上げても、問いはすぐには出てこない。私は匙を止める。皿へ目を戻さないまま、夫が口を開く。


「屋敷で、好きな場所はあるか?」


「まだ全部は存じませんの。三階に書庫があると伺いました。古い本があるのでしたら、そこなら好きになれそうですわ。背表紙を見ながら選ぶだけでも、きっと楽しいでしょうから」


 選べないなら訊きなさい、と書いた本人が、いま隣で訊かれている。助言の主が隣にいるとは、夫は知らない。昨夜、あれほど迷わず助言を書いた手で、私は匙を持ち直した。皿の縁に当てないようにするだけで、妙に手間がかかる。夫は私の手元から末席へ目を移す。


「ヘンドリク。書庫の合鍵を」


「閣下ご自身の鍵がおありでしょう。紙の束の部屋でございますよ。奥様のご用でしたら、必要なものを私がお持ちいたします。お探しの書名を仰せくだされば、すぐにでも」


「合鍵だ。目録も持ってきてくれ」


 輪から外れた鍵が、夫の手へ移る。ヘンドリクの鍵束が、一本ぶん軽い音を立てた。匙を置いて、私は夫へ向き直る。


「旦那様の書庫に、私が入ってもよろしいのですか? 出していただくのではなく、棚から自分で選んでも?」


「契約に書いていない。食後に開ける」


       ◇


 燭台と目録を持たされたヘンドリクが先に立ち、夫と私は三階へ上がる。


 夜の書庫には、古い紙と埃の匂いがこもっていた。開いた扉の裏にも棚の端にも、薄く埃が載っている。乾いた背表紙の革を、燭台の明かりがなでてゆく。ところどころ消えた金の文字へ顔を寄せると、私の影も棚に近づく。


 棚の隙間は細く、本を抜くまでは向こう側の人影しか分からない。背中合わせの棚の間へ進む夫を追う。探すのは灯台守(とうだいもり)の物語だ。私は目録を抱えた秘書官へ顔を向けた。


「探したい本がございますの。灯台守の物語です。古い本ですけれど、こちらにはございませんかしら? 題がかすれていても、お話の初めを見せていただければ分かりますわ」


 灯台守の名に、夫の手が止まる。ヘンドリクは先代の書記の字へ顔を寄せ、目録の上を迷いなくたどる。


「……灯台守の物語。奥から三つ目の棚、上から二段目でございます。こちらの目録には、そのように」


 紙の束から、物語の居場所が出てきた。夫は目録から奥の棚へ目を移し、戸口を示す。


「もういい。下がってくれ」


 燭台を戸口の台へ残し、ヘンドリクが下りていく。棚から本を抜くと、空いた隙間に夫の顔が半分だけ見えた。革の角を手で包む私に、夫が目を留める。


「その本の結末は、間違っている」


「間違っているのは、灯台守を灯に縛る読み方ですわ。下りてよかったのです。私、最後の頁を読むたびにそう思いますもの。あそこで下りなかったら、私が本を揺さぶってしまいますわ」


 私は本を開かず、背を支える。夫が隣の列で足を止める。


「灯を離れるべきではなかった。会えば、書けなくなる」


「離れなければ、一生、お顔も見られませんわ! 港町の娘は、灯だけを見て待っていればよろしいの? それでは、待つほうがあんまりですわ」


「顔を見なくても、灯は届く」


 届く。三年、紙の上で返ってきた言い方だ。本の角に添えた手に、隙間から夫の影が重なる。私は本を抱える腕に、少し力を込める。


「届くだけで、お返事は聞けません。紙なら私も持っております。でも、お声まで紙に書いてはくださらないでしょう? 言い合いをするたび、お返事を待つのも、もどかしいのです」


「紙の何が悪い? ……君の相手の受け売りか?」


「いいえ。その方は旦那様と同じことを仰いました。三年、言い合っておりますの。お二人を並べたら、私の味方が足りませんわね」


 棚の隙間の向こうで、紫紺の目が一度だけ細くなる。


「……君の言い方は、俺の知っている年寄りに似ている」


「まあ。七十を過ぎた方に、ですの?」


 夫の眉間が狭くなった。棚の間を回る私を、夫が顔だけで追う。


「ふんっ! ますます気に入らん」


「では、実際に試しましょう。最後の頁を、二人で読みましょう。お返事なら、その場でできますもの。負けを認めてくださるお声まで、ちゃんと聞こえますわ」


 燭台の下で本を開いた。乾いた頁を夫の手が押さえ、私の手は下の角を受ける。折れそうな頁の端を、夫がそっと平らにする。私は本へ顔を寄せ、最後の行を読む。


「灯の消えた夜ほど、明るい夜は無かったと、灯台守は書いている」


「……負けだ」


 返事がすぐに届く。低い声の終わりに、かすかな息の音まで聞こえた。頁を押さえる手はまだそこにある。私は次のひと言を待ってしまう。夫の手が離れるのを待って、そっと本を閉じ、両手で抱え直した。


「や……旦那様の、負けですわ」


 夜番さん、と呼びかけた口が熱い。笑うつもりなのに、口の端がうまく上がらない。短くなった蝋へ、夫が目を落とす。


「君といると、時間が……足りない」


 栞を挟む手が止まった。夫の耳が赤い。燭台の火が、二人ぶんの影を棚の背表紙へ長く伸ばしている。まだ栞を挟めていない頁を、開き直す。読み終えた場所を確かめるだけなのに、夫のほうを見てしまった。本を棚へ戻すと、夫は戸口で鍵を掛け、上着の内から取り出した鍵と並べる。


「鍵は二本ある。一本は、君の物だ」


 差し出された鍵の先で、燭台の火が小さく光る。私は夫の顔を見上げる。


「……私が、持っていてよろしいの? 読みたいときに、自分でここへ来ても?」


「好きになれそうだと、君が言った」


 合鍵が手のひらに載る。冷たい歯の形が、肌に食い込む。夫が自分の鍵をしまうまで、私の手は開いたままだった。


 扉を離れても、私は手のひらの合鍵をそっと握っている。

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