第9話「王都からの客人と、リーナの記録帳」
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二人の男が桐嶋商会の扉を開けたのは、昼を少し過ぎたころだった。
一人は五十代ほど。背がやや低く、肩が少し落ちている。目の下に疲れの線が刻まれていて、旅の埃が服にうっすら残っていた。長年の苦労が顔に出ている、と源三は思った。正直者の顔だ。
もう一人は二十代後半だろうか。背筋が伸びていて、服に一本の皺もない。書類が挟まった革の鞄を脇に抱え、帳場を一瞥して、口元をわずかに引き締めた。それから、商会の中を見渡した。小さな卓が四つ。くすんだ壁。客は二人しかいない。その目が「想像より随分と小さい」と言っていた。
源三は立ち上がった。
「いらっしゃいませ。お食事ですか」
「……ええ」と年配の方が言った。「いいですか」
「もちろんです。どうぞ」
年配の男は、少し安堵したような顔をした。若い方は、まだ口元を引き締めたまま椅子を引いた。
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マルコが今日の一品を運んできた。
豚肉と根菜の煮込みに、バルト農園から届いたばかりの青菜の炒め物、それに大麦のパン。見た目は素朴だが、煮込みの匂いが卓に広がった瞬間、年配の男が目を細めた。
「……良い匂いだ」
「ありがとうございます」
若い方——アルンは、出された皿を一度眺めてから、箸を取った。形式通りに一口食べる。
咀嚼する。
止まった。
もう一口、食べた。また止まった。それから無言で煮込みを一匙すくって、また口に入れた。
マルコが台所の入り口から首だけ出して、こちらを見ている。リーナが手帳を開いたまま、さりげなく様子を窺っている。
アルンはしばらくの間、黙ったまま皿と向き合っていた。
年配の男が、その様子を横目で見て、かすかに笑った。
「珍しいな、お前が黙るのは」
「……特に何も」
「そうか」
年配の男も食べ始めた。ゆっくりと、丁寧に。食べながら、肩が少しずつ下がっていくのが分かった。旅の疲れが、少しほどけていくようだった。
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食べ終えて、年配の男が茶を一口飲んでから、口を開いた。
「実は——少し、お聞きしたいことがありまして」
「どうぞ」
「ここは、桐嶋商会と言いましたか」
「はい」
「ライゼンで新しく立ち上げた商会、と聞いています」男は源三を見た。「クロード商会と、距離を置いている商会、とも」
源三は頷いた。
「……私は、ライノルトと申します。王都商務省から参りました」
アルンが鞄から書類を取り出し、卓の上に置いた。王都の紋章が押された証明書だ。
源三はそれを一瞥して、ライノルトを見た。
「驚かないのですか」ライノルトが少し意外そうに言った。
「驚いていますよ」源三は穏やかに答えた。「顔に出ないだけです」
ライノルトは一瞬、目を細めた。それから、小さく笑った。「そういう方ですか」
アルンが真顔で割り込んだ。「桐嶋殿、これは正式な調査です。王都商務省の監査官が——」
「アルン」
「はい」
「少し待て」
アルンは口を閉じた。ライノルトは再び源三を見た。
「率直に申します。我々はクロード商会の調査のためにライゼンに来ました。独占的な取引慣行、価格操作、同業者への圧力——王都にも報告が届いています。しかし」ライノルトは疲れた目を伏せた。「ここ数日、何も得られていない」
「証言者が見つからない、ということですか」
「皆、口を閉じます。理由は分かる。クロード商会との関係が怖いのでしょう。書類も出てこない。役所も動かない」ライノルトは茶をひと口飲んだ。「このままでは、何も掴めずに帰ることになる」
卓に、静かな間が落ちた。
アルンが真面目な顔で付け加えた。「正式な情報提供者として、ご協力いただける方を探しているのです。むろん、身の安全は——」
「リーナさん」
源三が言った。
帳場から、「はい」という声が返った。
「記録帳を持ってきてもらえますか」
一拍の間があった。
「……どの範囲で」
「全部です」
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リーナが運んできたのは、手帳が三冊と、別に綴じられた書類の束だった。
卓の上に、静かに置かれた。
アルンが怪訝な顔をした。「これは」
「桐嶋商会の開業以来の記録です」リーナは静かに言った。「クロード商会からの圧力については、こちらの手帳の第三節から——日付順に整理してあります」
アルンは手帳を手に取った。ページを開く。
止まった。
ゆっくり、次のページをめくる。また止まる。
「……これは」アルンの声が、少し変わった。「日付が……全部……」
「はい」
「金額まで記録してある。仕入れ価格の変動、市場価格との差異、業者ごとの対応の変化——」アルンはページを繰る手が速くなった。「証言者の名前まで……これは、いつから」
「開業初日からです」
アルンが顔を上げた。目が、少し大きくなっていた。
「開業から——ずっと?」
「秘書の仕事ですから」
アルンはリーナを見た。それから手帳を見た。それからまたリーナを見た。
ライノルトは手帳を手に取り、黙って読み始めた。
読む。また読む。ページをめくる。また読む。
その間、誰も何も言わなかった。マルコが台所の入り口からそっと顔を出して、また引っ込んだ。
ライノルトが顔を上げた。
疲れた目の奥に、何か違うものが灯っていた。
「……これだけのものが、あったとは」
「お役に立てますか」と源三が聞いた。
「立てます」ライノルトは静かに、しかしはっきりと言った。「これは——十分すぎる」
アルンが震える手で鞄から羊皮紙を取り出し、書き始めた。「ページ数を確認して……証拠として……正式に受理する場合の手順は……」独り言のように言いながら、猛然とメモを取っている。
源三はそれを見て、何も言わなかった。
ライノルトが、少し声を低くして言った。
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、これほどの記録を取っていたのですか。開業当初から、クロード商会に何かされると分かっていたのですか」
源三は少しの間、考えた。
「分かっていたわけではありません」源三は穏やかに答えた。「ただ——記録を取ることは、商売の基本です。何があったかを正確に残しておくことが、後で必ず役に立つ。それだけのことです」
「それだけのこと、か」ライノルトは静かに繰り返した。「それだけのことが、できていない商会が、世の中にどれほどあることか」
「そうかもしれませんね」
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扉が、勢いよく開いた。
入ってきたのは、男が二人。体格が良く、顔に愛想がない。服にクロード商会の紋章が見えた。
男の一人が帳場を眺め、ライノルトとアルンを見て、目を細めた。
「……やはりここにいたか」
源三は立ち上がった。
「いらっしゃいませ。お食事ですか」
「違う」男は低い声で言った。「その爺さんたちに渡した書類を、返してもらいに来た」
「書類?」源三は静かに眉を上げた。「我々の記録帳のことですか。それは我々の商会の所有物ですが」
「そんなもん、王都の役人に見せる必要はない。ここはライゼンだ。王都の連中が首を突っ込む話じゃない」
アルンが立ち上がりかけた。「き、貴様ら——王都商務省の監査官の前で、何を——」
「黙れ、若造」男がアルンを一睨みした。アルンが固まった。
もう一人の男が源三の方へ一歩踏み出した。
「話が分からないなら、こちらにも考えがある」
その手が、源三の肩へ伸びようとした。
その瞬間、扉が開いた。
——エルザだった。
薬草の入った布袋を肩にかけて、いつも通りの無愛想な顔で入ってきて——室内の空気を感じた瞬間、立ち止まった。
源三に向かって伸びていく手を見た。
体が、動いた。
エルザは男の手首を取り、半歩踏み込んで腰を落とし、そのまま体重を乗せた。男の体が崩れ、膝をついた。
一秒も、かからなかった。
エルザ自身が、目を少し見開いていた。
膝をついた男が顔を上げ、エルザを見た。エルザは男を見下ろしていた。
「……離せ」
「離します」エルザは手を放した。「ただ——次に霧島様に手を出すなら、今度は離しません」
声は、穏やかだった。それが却って、凄みになっていた。
男は立ち上がり、もう一人の男と顔を見合わせた。それから、何も言わずに出て行った。
扉が閉まった。
静寂。
アルンが、呆然と立ったまま扉の方を見ていた。
「あの……」アルンがエルザを見た。「今のは——」
「薬草を届けに来ました」エルザは布袋をリーナに渡した。「邪魔でしたか」
「邪魔どころでは」
「そうですか」
エルザはさっさと次の動作に移ろうとして——源三に止められた。
「エルザさん」
「はい」
「ありがとうございます」
エルザは少しの間、源三を見た。それから視線を外した。
「……また体が動いただけです」エルザは自分の手を一度見た。「勝手に」
「そうですね」源三は穏やかに笑った。「頼もしいことです」
エルザの目が、微かに輝いた。
ライノルトが、静かにエルザを見ていた。何も言わなかったが、その目が、確かに何かを記録していた。
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一時ほど経って、ライノルトが書類を整えながら言った。
「桐嶋商会を、王都商務省の協力認定商会として正式に登録します」
アルンがまた羊皮紙を取り出した。「手続きとしては——登録番号を発行して、商務省の証明書を発行して——」
「それはお前がやれ」
「はい」アルンは猛然と書き始めた。
ライノルトは源三を見た。
「これで、クロード商会も表立っては手を出しにくくなる。完全に守れるとは言えませんが」
「十分です」源三は頷いた。「あとは我々でやります」
「そうですか」ライノルトはしばらく、源三の顔を眺めた。「あなたは——どういう方なのですか」
「どう、とは」
「王都の役人が来ても慌てない。クロード商会の手下が来ても動じない。開業初日から記録を取り続ける秘書がいる」ライノルトは少し首を傾けた。「この商会は、普通ではない」
「そうですか」源三は穏やかに答えた。「ただ、普通のことをしているつもりですが」
「普通のことを、普通にできる商会が——どれほど少ないか」ライノルトは静かに立ち上がった。「ありがとうございました。この記録が、大きく役立ちます」
「お役に立てて良かったです」
アルンが書類を束ねながら、ちらりとリーナを見た。
「あの……秘書の方」
「はい」
「この記録、本当に——開業初日から全部ですか」
「はい」
「……一日も欠けていない?」
「欠けていません」
アルンはしばらく黙っていた。それから、深々と頭を下げた。
「……勉強になりました」
リーナは少し目を瞬かせた。それから「当然のことをしただけです」と答えた。耳は動かなかったが、いつもより声が少し、柔らかかった。
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二人が帰った後、エルザが帰り支度をしていた。
源三は帳場から声をかけた。
「エルザさん、少しよろしいですか」
エルザが振り返った。
「ドガンさんから、話があったと聞いています」
エルザの目が、少し揺れた。
「……父が?」
「先日、夜にいらっしゃいました。エルザさんのことを、一緒に考えたいと」源三は穏やかに続けた。「今日のことも含めて——近いうちに、三人で話しませんか」
エルザはしばらく黙っていた。
自分の手を、一度見た。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
エルザは扉の方へ歩き始めた。途中で一度だけ、振り返った。
「霧島さん」
「はい」
「今日みたいなことが——また起きたとき」エルザは真っ直ぐに源三を見た。「私は、ここにいていいですか」
源三は少しの間、エルザを見た。
「もちろんです」
エルザは頷いた。それだけで、また前を向いて歩き始めた。
扉が閉まった。
マルコが台所から顔を出した。「……なんか、いろいろありましたね、今日」
「そうですね」
「クロード商会の人、エルザさんにやられてたの、ちょっと面白かったです」
「マルコさん」
「はい」
「声に出さない方がいいですよ」
「……はい」
リーナが手帳に、今日の記録を書き込んでいた。日付、来訪者の名前、交わされた言葉の要点、エルザが体を動かした時刻まで。
源三はその手元を見ながら、静かに思った。
(記録は、言葉より正直だ。そして正直なものは——必要とされる場所に、必ず届く)
窓の外で、遠く雷が鳴った。
雨が来る前の風が、桐嶋商会の看板を、静かに揺らした。
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その夜、王都への早馬が一頭、ライゼンを出た。
鞄の中に、リーナの記録帳の写しが入っていた。
クロード商会の屋敷では、グレインが執務室の窓から、その馬が去っていくのを眺めていた。
しばらく、無言だった。
それから、静かに言った。
「——動くか」
隣に立つ男が、「ご命令を」と答えた。
グレインは窓から離れた。
「桐嶋商会を、本格的に潰す。始めろ」
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**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 遠くで雷が鳴り、雨が来る前の風が吹いた日】**
**王都商務省 協力認定商会:登録完了**
**証拠提供:クロード商会の価格操作・仕入れ妨害、全記録を提出**
**クロード商会の動向:本格的な敵対行動へ移行の兆候**
**エルザ:近日中に三者会談の予定**
根は、十分に張った。
嵐が、来る。
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*次回「エルザに、役職を」*
続けて読んでくださり本当に嬉しいです!ありがとうございます!




