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第8話「二人きりの厨房と、前の世界の味」


---


 マルコが「今日、休みをいただいてもいいですか」と言ったのは、朝の仕込みが始まる前だった。


 珍しいことではあったが、源三は特に驚かなかった。人間、息を抜く日は必要だ。それは前世でも、今世でも変わらない。


「もちろんです。ゆっくりしてきてください」


「ありがとうございます!」


 マルコは嬉しそうに——本当に嬉しそうに——外に出ていった。足取りが軽い。若者というのは、休みの日はああいう顔をするものだ、と源三は思った。


 扉が閉まった。


 静かになった。


 リーナが帳場で手帳を開いたまま、少しの間、入り口の方を見ていた。


「……静かですね」


「そうですね」


「いつもはマルコさんが台所で何かしていますから」


「今日は我々二人です」


 リーナはそれを聞いて、手帳に視線を戻した。耳が、ほんの少しだけ動いた。


---


 午前の仕事をひとしきり片付けたころ、源三は立ち上がって貯蔵庫をのぞいた。


 バルト農園から届いたばかりの卵が、籠に並んでいる。野菜もある。米もある——この世界では珍しい品だが、東の港から仕入れたものが少し手元にあった。


(せっかくですね)


 源三はひとりごとを言った。


「リーナさん」


 帳場から、「はい」という声が返ってきた。


「昼食は、今日は私が作ります」


 返事が、一拍遅れた。


「……霧島様が、ですか」


「前の世界に、よく作っていた料理がありまして」


 リーナが立ち上がる気配がした。帳場から顔を出して、貯蔵庫の前に立つ源三を見る。


「霧島様が料理を、ですか」


「同じことを二度聞きましたよ」


「……失礼しました。ただ、意外だったもので」


「八十三年生きていれば、料理くらいします」


 リーナはしばらく源三を見ていた。それから、「手伝います」と言って、厨房の方へ歩いてきた。


---


 厨房は、マルコが毎日使っているからか、整然としている。鍋が並び、包丁が揃い、まな板がある。源三はその中を少し見渡してから、卵と野菜と米を取り出した。


「今日作るのは——」源三は少しの間、この世界の言葉で何と言えばいいか考えた。「玉子で包んだ炒め飯です。前の世界では、オムライスと呼んでいました」


「オムライス」


「発音が難しければ、玉子飯でも構いません」


「オムライスで結構です」リーナは手帳を出そうとして、止めた。「……今日は、記録しなくていいですか」


「お休みの日ですよ」


 リーナは手帳をしまった。珍しいことだった。


「では、まず野菜を切りましょう」源三は玉ねぎを取り出した。「薄く、細かく。玉ねぎ、人参、あとはこの赤いもの——」


「パプリカです。エルザさんから薬草の仕入れの際に少し分けてもらいました」


「なるほど。では全部、薄切りにしてもらえますか」


 リーナはまな板の前に立って、包丁を手に取った。


 源三は隣に立って、切り方を確認しようとした。


 距離が、近かった。


 厨房はそれほど広くない。当然といえば当然だが、リーナの肩が源三の腕とほとんど触れそうな位置になった。源三は特に気にせず、「こうやって、なるべく薄く」と手元を覗き込む。


 リーナの手が、ほんの少し、止まった。


「……リーナさん、手が止まっていますよ」


「止まっていません」


 明らかに止まっていた。


 リーナは意識して包丁を動かした。薄く、均一に。百二十年の記憶力と手先の器用さは本物で、見る見るうちに整然と刻まれた野菜が並んでいく。


「上手ですね」


 源三が言った。ごく自然に、ごく普通に。


 リーナの耳が、ぴくっと動いた。


(上手ですね、の一言で動揺するなど。百二十年の積み重ねは何だったのか)


「……当然のことです」リーナは前を向いたまま答えた。「手先の器用さは、秘書の基本です」


「そうですね」源三は素直に頷いた。「では米の方は私がやります。少し離れて作業しましょうか」


 リーナは「はい」と答えた。内心では、少しだけ、安堵と名残惜しさが同時にあった。


---


 米に油を引いて炒め、野菜を加える。塩、胡椒。シンプルな工程だが、源三の手つきは迷いがない。長年の習慣というのは体に残るものだ、と源三は思いながら、鍋を振った。


「霧島様は、前の世界でよく料理をしていたのですか」


 リーナが聞いた。先ほどより少し落ち着いた声だった。


「独り身が長かったので」源三は炒め飯をかき混ぜながら答えた。「自分で作らないと食べられませんから」


「独り身、ですか」


「仕事が多かった。家族を持つ暇がなかったとも言えますね」


 リーナはしばらく黙っていた。


「……寂しくなかったのですか」


「仕事をしているときは、気になりませんでした。八十三年、ずっとそうでした」源三は穏やかに続けた。「引退してから、少しそう思いましたが——そのころには転生していましたね」


 リーナはその横顔を見た。笑っているわけではない。かといって悲しそうでもない。ただ静かに、事実として話している。


(この人は、ずっと一人で働いてきた)


 百二十年を一人で生きたリーナには、それが少し、分かった。


「次は卵ですね」源三が炒め飯を皿に避けながら言った。「これが少し難しいので、一緒にやりましょうか」


 リーナの耳が、また動いた。


---


 卵を三つ、割って溶いた。


 源三はフライパンに薄く油を引き、火加減を調整した。


「卵を入れたら、すぐにかき混ぜて——それを途中でやめて、半熟のまま形を作るんです」


「半熟のまま、ですか。焦げないのですか」


「火加減が大事です。弱めで、素早く。やってみますか」


 リーナはフライパンの前に立った。源三が後ろから手元を確認できる位置に立つ。


 卵を流し入れた瞬間、じゅっと音がした。


「かき混ぜて」


 リーナがへらを動かす。卵が固まりかけて、また溶ける。


「そこでやめて、フライパンを——こういう感じで」


 源三がリーナの手に、そっと手を添えた。フライパンの柄を持つ手の上から、ゆっくりと手首を動かす感覚を伝える。


 リーナの思考が、止まった。


 卵は半熟のまま、ふわりと形を作っていく。


 源三の手が温かい。それ以外のことが、何も考えられなかった。


「そうです、そのまま——傾けて」


 言われた通りに動いた。自分が何をしているのか、あまり把握できていなかった。


「上手い」


 源三が手を離した。


 リーナはそこでようやく、息をした。


(今、息を止めていた。百二十年生きて、卵一つのために息を止めた)


 フライパンの上に、ふわふわとした卵の塊ができていた。


「できましたよ」源三が言った。「あとは炒め飯の上に乗せて——」


 リーナは黙って、それを皿に滑らせた。手が、少し震えていた。


---


 最後に、源三が小さな瓶を取り出した。


「これは」


「ケチャップというものです。前の世界から作り方を覚えてきました」源三はオムライスの上に、ゆっくりとかけた。橙色の甘い香りが漂う。「本来はもう少し違う形ですが、この世界の材料で再現しました」


 リーナは皿を見た。


 丸みのある卵。その上の橙色。見たことがない料理の形。


「……綺麗ですね」


「そうですか」源三は少し嬉しそうだった。「では食べましょう」


 二人は向かい合って座った。


 厨房の窓から、春の昼の光が差し込んでいる。外では鳥が鳴いている。客もいない。マルコもいない。商会の中に、二人分の食器の音だけが聞こえた。


 リーナは一口、食べた。


 甘い。卵の柔らかさと、炒め飯の香ばしさが一緒になって——そして、どこか知らない場所の、知らない時代の匂いがした。


「……美味しい」


「よかった」


「これを、前の世界で作っていたのですか」


「よく作っていました」源三は自分のオムライスを切りながら答えた。「一人で食べていましたが」


 リーナは少しの間、自分の皿を見た。


「今日は、二人ですね」


 源三が顔を上げた。


「そうですね」


 それだけの言葉だったが、源三は少しだけ、静かに笑った。


 リーナはそれを見て、視線を皿に戻した。耳の先が、音もなく、じわじわと赤くなっていった。


---


 食べ終えて、リーナが食器を洗い始めた。


 源三は帳場に戻って帳簿を広げたが、少しの間、ペンを持ったまま動かなかった。


 窓から、厨房の方を見る。水の音と、リーナが何かを整頓する音がする。


(前の世界で、あの料理を一人で食べていたことは——確かに少し、寂しかったかもしれませんね)


 源三は静かにそう思って、ペンを動かし始めた。


 しばらくして、リーナが厨房から出てきた。手を拭きながら、帳場の前を通り過ぎようとして——立ち止まった。


「霧島様」


「はい」


「……また、作ってもらえますか。あのオムライスを」


 源三はリーナを見た。リーナは前を向いたまま、少し顎を引いていた。耳が、まだほんの少し赤かった。


「もちろんです」源三は答えた。「マルコさんがいないときに、また」


「……はい」


 リーナは自分の席に戻った。手帳を開いて、ペンを取る。


 何も書かなかった。ただ、ペンを持ったまま、窓の外を少しの間、見ていた。


---


 夕方、マルコが帰ってきた。


「ただいま戻りました! 今日は休みをありがとうございます、旦那。ゆっくり——」


 マルコは台所の入り口で止まった。


 鍋が二つ、洗われて伏せてある。まな板が拭かれている。微かに、卵と何かが炒まったような匂いが残っている。


 マルコはゆっくりと振り返り、帳場の源三を見た。それからリーナを見た。


「……二人で、何か作りましたか?」


「昼食を」源三が答えた。


「何を」


「前の世界の料理を少し」


 マルコは少しの間、厨房の中を見渡した。それから、「……いいな」と小さく言った。


「何がですか」リーナが顔を上げた。


「二人で料理して、二人で食べたんでしょう。いいな、って」マルコは照れたように頭を掻いた。「俺がいない日に、旦那の料理が食べられるなんて」


「……別に、そういうことでは」


「じゃあ次は俺にも作ってくださいよ、旦那」


「いいですよ」


「本当ですか」マルコが目を輝かせた。「何ていう料理ですか」


「オムライスといいます」


「オムライス。覚えました」マルコは台所に入りながら言った。「俺が一日休んだ分、今夜の夕食は俺が作ります。リーナさんへのお詫びも込めて」


「当然です」リーナは手帳に視線を落としながら言った。「しっかり作ってください」


「はいはい」


 マルコが鍋を出す音がする。


 リーナは手帳を見たまま、口元が、ほんの少しだけ、動いた。


 源三はそれを、見ていた。


 見ていたが、何も言わなかった。


---


**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 厨房に春の昼の光が差し込んだ日】**


**営業:休業(マルコ休日のため)**

**昼食:オムライス、二人分**

**特記事項:なし**


 なし、と書いたが——源三はペンを置いて、窓の外をひとしきり眺めた。


 悪くない一日だった。


---


次回「王都からの客人と、リーナの記録帳」


いつもお付き合いいただき感謝です!次回も楽しんでいただけるよう頑張ります!

9話、10話は29日に、11話12話は30日に投稿します!

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