第7話「エルザ、桐嶋商会の扉を叩く」
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その日の昼下がり、桐嶋商会の扉が、勢いよく開いた。
マルコが鍋をかき混ぜる手を止め、源三が帳場から顔を上げ、リーナが手帳の筆を止めた。
入ってきたのは、若い女だった。
二十代前半だろうか。腰まで伸びた栗色の髪を無造作に束ねている。目が大きく、眉が太く、表情に一切の愛想がない。着ているのは街娘の普通の服だが、どこかしら——姿勢と言うべきか、足の踏み出し方と言うべきか——軍人か何かを思わせるものがある。
女は入り口に立ち、帳場の源三を真っ直ぐに見た。
「桐嶋商会ですか」
「そうです」
「父が持って帰ってきたスープ、あそこのものですかと聞いたら教えてもらえなかった。でも顔色でここだと分かった」
源三は少しの間、女を見た。
(……なるほど。ドガンさんの娘さんですか)
目の形が、似ている。眉の太さも。何より——一切の遠回しがない、その喋り方が。
「どうぞ、お座りください」
「座るつもりはありません。一つだけ聞かせてください」
「どうぞ」
「あのスープ——何が入っていましたか」
源三はマルコを見た。マルコが台所の入り口から顔を出す。
「大根と、生姜と……あとは骨でとったスープです。食欲がないときでも入りやすいように、味を薄めにしてあります」
女は少しの間、黙った。
「……食べました」
「そうですか」
「全部。久しぶりに」
マルコが、照れたように頭を掻いた。
女はもう一度、源三を見た。
「エルザです。ドガンの娘です」
「桐嶋と申します。こちらがリーナ、台所にいるのがマルコです」
「……ドガンから聞きました。ギルドに変な商会が来て、妙に落ち着いた白髪のおじさんがいたと」
リーナが「的確な描写ですね」と小声で言った。
「父はああ見えて、人を見る目があります」エルザは続けた。「信用できる人間かどうか、だいたい一目で分かる。その人が気にかけているなら——」
そこで初めて、エルザの表情が少し和らいだ。
「話くらい聞いてもいいかと思いました」
「ありがとうございます。改めて、どうぞお座りください」
今度は、エルザは素直に椅子を引いた。
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リーナが茶を出した。エルザはそれを一口飲んでから、口を開いた。
「本題があります」
「お聞きします」
「父から聞きましたか。私が薬草屋をやっていることを」
「伺っておりません」
「では最初から話します」エルザは背筋を正した。「私は三年前から、ライゼンの薬草屋を一人でやっています。仕入れはギルドと、街の外の薬草農家から直接。小さな店ですが、薬師のお客さんが何人かついていて、それなりにやってきました」
「はい」
「半年前から、おかしくなりました」エルザの声が、わずかに低くなった。「仕入れ値が上がり始めた。最初は少しだったから、仕方ないかと思った。でも毎月上がる。それも、私の店だけ」
源三は頷いた。黙って聞いている。
「農家に直接聞きに行ったら——申し訳なさそうな顔をして、値段は変えられないと言われた。後で分かったんですが、クロード商会が農家の側に話をつけていた。私への卸値を上げるよう、圧力をかけていたんです」
「理由は分かりますか」
「ひとつ、心当たりがあります」エルザは少し口を引き結んだ。「去年の秋、クロード商会の人間が私の店に来て、傘下に入らないかと言いました。断りました。それからです」
源三はしばらく、手元のカップを見ていた。
(また同じやり方ですね)
気に入らない相手には兵糧攻め。断った者は締め上げる。クロード商会のやり口は、一貫している。
「今の状況を聞かせていただけますか」
「仕入れコストが上がった分、販売価格に乗せるしかなかった。そうしたら常連さんが何人か来なくなりました。でも値下げしたら今度は利益が出ない。このままでは——」エルザは言葉を切り、一度だけ視線を外した。「半年以内に限界です」
沈黙が落ちた。
「なぜ我々のところに」源三は静かに聞いた。
「農家に直接買いに行っている商会があると聞きました。農家が教えてくれた。バルトじいさんが特に——あそこの商会の人は信用できると言っていました」
マルコが台所の入り口で、目に見えて嬉しそうな顔をした。リーナは「また顔に出ている」と小声で言った。
「我々で力になれることがあれば」源三は続けた。「薬草についても、直接農家から仕入れるルートを作れる可能性があります。ただ——」
「クロード商会との摩擦が増えることは分かっています」エルザは遮るように言った。「覚悟の上です。このまま引いてもじり貧になるだけです」
「勇気がありますね」
「勇気じゃありません」エルザは少し眉を上げた。「父がいつも言っていた。勝てない喧嘩には突っ込むな。でも逃げたら終わりだ、と」
源三は少し目を細めた。
(ドガンさんらしい言葉ですね)
「具体的な仕入れ先と、現在の取引条件を教えていただけますか。リーナさん、記録をお願いします」
「はい」
エルザとリーナの間で、数字が動き始めた。
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話が一段落したとき、扉が開いた。
入ってきたのは、男が二人。体格がよく、腕を組んでいる。クロード商会の紋章を縫い込んだ服だ。源三は見覚えがある——以前、看板を磨いていたときに来た連中と同じ服装だった。
男の一人が、エルザを見て目を細めた。
「よお、エルザ。こんなところにいたのか」
エルザの表情が、すっと固くなった。
「何の用ですか」
「用はお前の店の方にある。来てもらおうか。話があるんだと、うちの旦那が」
「今、別の方と話しています」
「そいつは後でいい」男は一歩踏み込んだ。「うちの旦那は待たされるのが嫌いなんでね」
源三は立ち上がった。
「申し訳ありませんが、今はこちらとのお話の時間です。後ほどにしていただけますか」
男はちらりと源三を見た。白髪まじりの穏やかな老人——そう見えたらしい。鼻で笑った。
「あんたには関係ない話だ、おじいさん。おとなしく引っ込んでいな」
「おじいさん、ですか」源三は表情を変えなかった。「ご忠告はありがたいですが、我が商会の客人に手を出されることは、商会主として見過ごせません」
「商会主?」男が口の端を上げた。「ここが? 笑わせるな」
もう一人の男が、エルザの腕に手を伸ばした。
「いいから来い」
その瞬間——エルザの体が動いた。
意識してのことではなかった、と後から源三は思う。男が手を伸ばし、エルザがそれを感知して、体がそれより先に反応した。
エルザは男の手首を掴み、軽く腰を落とし、体重を乗せて——
男が「うわっ」と声を上げて体勢を崩した。壁に片手をついてかろうじて踏みとどまる。
エルザ自身が、少し驚いた顔をしていた。
台所でマルコが固まっている。リーナが静かに手帳を持ちながら、目だけが少し大きくなっていた。
男が壁から体を起こし、顔を赤くした。
「この——」
「やめておいた方がいいですよ」
源三の声は、穏やかだった。ただ、どこか——温度がなかった。
「これ以上続けると、商人ギルドに正式な報告を上げることになります。クロード商会がライゼンの商人と客人に対して行った行為として。ギルドマスターのドガン殿に直接、詳細とともに」
男が固まった。
「……ドガン?」
「エルザさんの父上です」源三は静かに続けた。「よくご存知のはずですが」
男二人が顔を見合わせた。
それから、何も言わずに引き揚げた。
扉が閉まった。
静寂。
マルコが大きく息を吐いた。「……びっくりした」
「エルザさん」源三はエルザに向き直った。「大丈夫ですか」
「……はい」エルザは自分の手を見ていた。「体が勝手に動きました。どうして」
「体が覚えていたんでしょう」
「何を」
「訓練を」
エルザは源三を見た。
「少し聞かせてください」源三は穏やかに言った。「ドガンさんから、格闘を習ったことがありますか」
エルザの目が、かすかに揺れた。
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エルザはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「幼いころ、少しだけ」
「そうですか」
「父は昔、冒険者でした。体術をよく知っている。私が幼いころ、見様見真似でついて回って——父も最初は教えてくれていました」エルザは視線を窓の外に向けた。「でもある日、急に教えなくなった。代わりに、薬草の知識を教え始めた。花の名前、薬師の調合、ギルドの規則」
「理由を聞きましたか」
「聞いたら——『女の子には必要ない』と言われました」
その一言に、小さな傷のようなものが滲んでいた。二十年ほどの時間が経っても、消えていない傷が。
「そうですか」
「だから私は薬草屋を選びました。父が教えてくれたことを、仕事にしようと思った。でも」エルザは手を見た。「さっきの——私は、何もしようとしていなかったのに、体が」
「体は覚えています」源三は静かに言った。「幼いころに刻まれた動きは、意識よりも先に出てくる」
「……父は本当は」エルザは一度、言葉を止めた。「私に才能があると思っていたんでしょうか」
「だから教えるのをやめたんだと思います」
エルザが源三を見た。
「才能がないから教えなかったのではなく——才能があるから、危険な道に進んでほしくなかった」
長い沈黙。
「……馬鹿みたい」エルザは小さく言った。「そんなこと、一度も言ってくれなかった」
「言えない親御さんの方が、多いです」
エルザは少し、唇を噛んだ。
それから、顔を上げた。目に、また火が戻っていた。
「桐嶋さん」
「はい」
「私の薬草屋の件——協力してもらえますか。クロード商会への対抗策も含めて」
「もちろんです」
「それと」エルザは少し間を置いた。「私も、何か力になれることがあれば、したい。さっきみたいなことが——また起きたとき、店に女一人では限界があります。私が何かできることがあれば」
源三はエルザを見た。
体が自然に動いた、あの瞬間を思い出す。年に不釣り合いな反応速度。重心の低さ。本人すら知らない体の記憶。
(……この方は、まだ自分を知らない)
「今すぐ答えを出す必要はありません」源三は穏やかに言った。「まず薬草の件から始めましょう。それから、ゆっくり考えていきましょう」
「……はい」
「あと、一つだけ」源三は少し笑った。「さっきドガンさんのことを『馬鹿みたい』とおっしゃいましたが——あの方は、娘さんのことを心配するあまり、少し不器用だっただけだと思います」
エルザは少し目を細めた。
「……知ってます」
「そうですか」
「でも言いたくなるときもあります」
「それは、当然のことだと思います」
エルザはもう一度、小さく笑った。今度は本物の笑みだった——少し苦くて、少し温かい笑みが。
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エルザが帰った後、三人は一時、静かに仕事をしていた。
リーナが手帳を開いたまま、ぽつりと言った。
「あの動き——鍛冶職人の娘が出せるものではありませんね」
「そうですね」源三は帳簿を書きながら答えた。
「父親から格闘術を習っていたとしても——あの反応速度は、相応の素質があります」
「気づいていましたか」
「目が合った瞬間から」リーナは手帳に何かを書き込んだ。「……霧島様も、ですね」
源三は答えなかった。ただ、少し口元が動いた。
マルコが鍋をかき混ぜながら、首を傾げた。
「エルザさんって、何者なんですかね。薬草屋なのに、さっきの動き——俺より速かったですよ」
「マルコさんは料理人ですから、速くなくて当然です」
「それはそうですけど……なんか、すごかったな」マルコは少し考えてから言った。「自分でも知らなかった、って顔してましたよね、あの人。体が勝手に動いた、って」
「そうですね」
「……旦那はそういうの、好きですよね。人が自分で気づいてないものを見つけるの」
源三はマルコを見た。
「そうですか」
「なんとなく。そういう顔してるから」
(そういう顔、か)
源三は帳簿の続きを書いた。
人は、自分でも気づいていない才能を持っている。それが正しい場所に置かれたとき、初めて光る。それだけのことだ——ただそれだけのことが、案外、難しい。
(まだ時期ではありません。でも、いつか)
帳場の窓から、ライゼンの夕方の通りが見えた。
エルザが歩いていく後ろ姿が、遠くなっていく。その背筋は、真っ直ぐだった。
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その夜、ドガンは夕食を食べながら、珍しく口数が少なかった。
「どうしたの」とエルザが言った。
「何もない」
「嘘つくの下手だよ、お父さんは」
ドガンは箸を置いた。
「……桐嶋商会に行ったか」
「行ったよ」
沈黙。
「どうだった」
「良い商会だった」エルザはスープをひと口飲んだ。「あの人——桐嶋さん、変わってるね。穏やかなのに、なんか重みがある」
「そういう人間がいる」ドガンは素っ気なく言った。「長く生きたやつはな」
「お父さんみたいに?」
「俺はうるさいだろうが」
「そうだね」
ドガンはしばらく黙った。
「……何かあったか」
「少し、あったよ」エルザは箸を動かしながら答えた。「クロード商会の人間が来て」
ドガンの眉が動いた。
「大丈夫だった。桐嶋さんが、うまく追い払ってくれて」エルザは少し考えてから言った。「……あと、私の体が勝手に動いて、相手の手を払っちゃった」
ドガンが固まった。
「大したことじゃない。でも——体が覚えてるんだね、昔教えてもらったこと」
長い沈黙。
「……そうか」ドガンは低く言った。
「なんでやめたの、教えるの」
「……」
「教えてくれなくていい。なんとなく分かったから」エルザはスープを飲み干した。「ただ——続けて教えてくれてたら、どうなってたかな、とは思った」
ドガンは何も言わなかった。
箸を持ったまま、テーブルの一点を見ている。
エルザは立ち上がった。
「ごちそうさま。洗い物、やっとく」
台所に消えていく娘の背中を、ドガンは黙って見ていた。
長い、長い沈黙の中で——ドガンは静かに、深く息を吸った。
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**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 夕暮れに燕が二羽、軒を掠めた日】**
**新規来訪者:一名(エルザ・ドガン、薬草商)**
**クロード商会との摩擦:軽度の接触あり、事なきを得る**
**薬草仕入れルート開拓:検討開始**
**未確定事項:一名、可能性を保留中**
人は、自分でも気づいていない才能を持っている。
それを見つけるのが、少し好きだった。
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*次回「二人きりの厨房と、前の世界の味」*
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