第6話「農村にて、桐嶋源三は畑の端に立つ」
---
夜明けとともに、三人はライゼンを出た。
春の街道は、朝の光の中で静かだった。石畳が途切れると、土の道になる。両脇に野原が広がり、遠くに丘が見える。街の中とは全く違う、ゆったりとした空気が流れていた。
マルコが深く息を吸った。
「気持ちいいですね。街道ってこんな感じなんですね」
「出たことがなかったんですか」
「修行中はずっと王都でしたから。こういう景色、久しぶりです」
源三も同じように、ゆっくりと周囲を見渡した。
畑が見え始めた。麦だろうか、青い穂が揺れている。農作業をしている人影がある。春の朝の農村とは、こういうものか——前世でも、こんな景色をゆっくり見たことは、あまりなかった。
(悪くないですね)
「霧島様、東の農村までは街道をまっすぐ進んで、丘の手前で左に折れます」リーナが歩きながら言った。「昨夜のうちに地図を頭に入れておきました」
「ありがとうございます。道案内はお任せします」
「……当然のことです」
「リーナさん、地図って持ってたんですか」マルコが聞いた。
「ギルドで入手しました。登録の翌日に」
「いつの間に」
「霧島様が看板を磨いている間に」
マルコは源三を見た。源三は「知りませんでした」と答えた。「そういうことを事前に動いてくれているんですよ、リーナさんは」
リーナは前を向いたまま、耳だけが少し動いた。
「それより、歩くのが速いですよ、旦那」マルコが言った。「俺より足が長いわけでもないのに」
「そうですか。これでも遅くしているつもりですが」
「どんな歩き方をしてたんですか、前の世界では」
「……仕事が多かったので、歩くことを覚えました」
「仕事が多いと歩き方が速くなるんですか」
「急ぐのではなく、止まらないことが大事なんです」源三は静かに続けた。「小さな一歩でも、止まらない限り前に進んでいますから」
マルコは少しの間、その言葉を咀嚼するように黙っていた。
それから、「……商売と同じですね」と言った。
「そうですね」
---
農村に着いたのは、午前の半ばだった。
小さな集落だ。家が十軒ほど、畑が広がっている。鶏の声がして、どこかで犬が吠えている。入り口付近で農具を手入れしていた男が、三人に気づいて立ち上がった。
六十代ほどだろうか。日焼けした顔に深い皺。手が大きく、指の節が太い。長年、土を相手にしてきた手だ。
「何の用だ」
声が低く、疑り深い。
「桐嶋商会と申します」源三は頭を下げた。「ライゼンで商いをしております。農作物の仕入れについて、ご相談に参りました」
「商会?」男は眉を寄せた。「クロード商会の回し者か」
「違います。クロード商会とは別の商会です」
「ライゼンに別の商会なんてあったか」
「先週、設立しました」
男はしばらく、三人を上から下まで眺めた。白髪まじりのおじさん。銀髪のエルフ。料理服の若者。どう見ても、農村に買い付けに来るような商人たちには見えない。
「……帰れ」
「少しだけ、お話を聞いていただけませんか」
「用はない。クロード商会の顔色を窺いながら商売しなきゃいけないんだ、こちとら。下手に別の商会と付き合ったら、何をされるか分からん」
源三は頷いた。
「ご事情はよく分かります」
「なら帰れ」
「ただ一つだけ確認させてください」
男が眉を上げた。
「今、クロード商会にはいくらで売っていますか」
男は黙った。
「答えたくなければ結構です」源三は続けた。「ただ、もし市場価格の六割以下であれば、我々はより良い条件をご提案できます」
「……六割以下がどうした」
「ご存知でしたか」
「知ってるよ」男は吐き捨てるように言った。「毎年下がっていく。文句を言ったら『他の農家に頼む』と言われる。それだけだ。どうしようもない」
「そうですか」
源三は少しの間、男を見た。それから、マルコの方を向いた。
「マルコさん、畑を見せていただけますか」
---
マルコは男に向き直り、頭を下げた。
「少しだけ、畑を見せてもらえますか。食材を見てみたくて」
「食材を?」
「俺、料理人なんです。食材を直接見ると……分かることがあって」
男はしばらく迷った顔をした。それから「まあ、見るだけなら」と言って、畑の方へ歩き始めた。
マルコはその後をついて行き、畑に入った。
しゃがんで、野菜を一つ手に取る。両手で包むように持って、目を閉じる。
源三は離れたところから、それを見ていた。
しばらくして、マルコが顔を上げた。目が光っている。
「この大根……すごいですよ」
「何がだ」男が眉を寄せた。
「甘みがある。土の質が良いのと、水の当て方が上手い。こういう育て方をしている農家、あまりいないです」マルコは立ち上がり、隣の畝に移った。「こっちの人参も——ちょっと待ってください」
人参を手に取り、また目を閉じる。
「……炒めるより、じっくり煮た方が良い。甘みが溶け出す。これはスープに入れたら最高になる」
「お前……農家でもないのに、なんでそんなことが分かるんだ」
「俺にも、よく分からないですけど」マルコは照れたように頭を掻いた。「触ると、声が聞こえる感じがするんです。食材の」
男は黙って、マルコを見ていた。
長い沈黙だった。
それから、男は小さく言った。
「……バルトだ。この農村の農家をやっている」
「マルコです。桐嶋商会の料理長です」
「料理長か」バルトは少し苦い顔をした。「こんな若造が」
「二十三歳です」
「若造だろう」
「否定はしません」
バルトはもう一度、マルコを見た。それから、源三の方に視線を移した。
「……話を聞こう」
---
バルトの家の軒先で、四人が向き合った。
リーナが手帳を開く。源三が口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。我々は農作物を直接買い付けたい。クロード商会を通さずに」
「それで、クロード商会に目をつけられたらどうする」
「そのリスクはあります」源三は認めた。「ただ——」
「リーナさん」
「はい」リーナが手帳を開いた。「現在、クロード商会がこの地域の農産物に支払っている価格は、市場価格の平均で五割八分です。我々が提示する価格は、市場価格の八割です」
バルトが顔をしかめた。「……本当か」
「数字に嘘はありません」源三は続けた。「クロード商会を通さない分、中間の取り分がなくなります。その差額を農家の方にお返しする。それだけのことです」
「だがクロード商会から睨まれる」
「そこは、我々が引き受けます」
「引き受ける、とは」
「クロード商会が圧力をかけてくるとすれば、相手は我々です。農家の方々ではない」源三は静かに言った。「我々との取引を表に出す必要もありません。それはこちらが守ります」
バルトはしばらく黙っていた。
目を細めて、源三を見ている。長年、商人に煮え湯を飲まされてきた老農家の目だ。簡単には信じない。信じて裏切られた回数が、その目の奥に積み重なっている。
「……なぜそこまでする」バルトは低く言った。「お前らに何の得がある」
「美味い食材が手に入ります」
「それだけか」
「それだけです」
バルトは鼻から息を吐いた。
「嘘くさい話だ」
「そうですか」源三は頷いた。「では、一つだけ聞かせてください」
「なんだ」
「バルトさんは、農家として、ご自身の作物をどう思っていますか」
バルトが眉を動かした。
「良いものだと思っています」源三は続けた。「マルコさんの反応を見ていれば、分かります。あの子は本物の食材にしか、あの顔をしません」
マルコが「え、俺の顔ってそんなに分かりやすいですか」と言い、リーナが「分かりやすいですよ」と答えた。
源三はバルトを見たまま、静かに言った。
「あなたの作物は、美味い料理になる資格がある。それをクロード商会に六割以下で買い叩かれて、どこへ行くか分からない流通に乗せるのは——もったいないと思います」
バルトは何も言わなかった。
「食べた人が喜ぶのを知ってほしい。作り手として」
長い沈黙が落ちた。
どこかで、鶏が鳴いた。
バルトが目を細めた。その目が、わずかに潤んでいた。
「……三十年、農家をやっている」ぽつりと言った。「一度も、そんなことを言った商人はいなかった」
「そうですか」
「クロード商会は値段しか見ない。こちらの話なんか聞かない」バルトは膝の上の手を、ぎゅっと握った。「良いものを作っても、安く買い叩かれる。それが当たり前だと思っていた」
「当たり前ではありません」
源三の声は、穏やかで、揺るがなかった。
「作り手の誇りは、正当に扱われるべきです。それが商売の筋です」
---
リーナが契約書を取り出したとき、バルトは目を丸くした。
「……最初から用意していたのか」
「念のため」リーナが答えた。「使わない可能性もありましたが」
「用意周到だな」
「秘書の仕事ですから」
バルトは契約書に目を通した。何度も読み直した。読みながら、少し眉を寄せたり、頷いたりした。
それから、サインをした。
「……これで良いか」
「ありがとうございます」源三が頭を下げた。「大切にします」
バルトは立ち上がり、腕を組んだ。
「一つ、いいか」
「どうぞ」
「隣の村にタムという農家がいる」バルトは言った。「俺と同じで、長年クロード商会に泣かされてきた。腕は俺より上だ。話を通してやる」
「ありがとうございます。ぜひ」
「礼はいらん」バルトは素っ気なく言った。「……美味い飯を出してくれればそれでいい。いつか食いに行く」
「お待ちしています」
「エルフの秘書がいる店なんて、珍しいしな」
リーナが「ご来店をお待ちしています」と答えた。耳がわずかに動いていたが、声は完璧に平静だった。
---
帰り道は、来たときより荷物が重かった。
バルトが「今日のところは持っていけ」と言って、大根と人参と葉物野菜を持たせてくれた。「代金はいらん。試しに使ってみろ」と言って、受け取らなかった。
三人は夕暮れの街道を、荷物を分け合いながら歩いた。
マルコが大根を一本抱えながら、ぽつりと言った。
「農家ってすごいな、と思いました」
「何が」リーナが聞いた。
「毎日土と向き合って、天気に左右されて、値段も自分で決められなくて——それでも毎年、作り続けてる」マルコは大根を少し持ち直した。「俺、料理中に食材の声を聞くたびに思うんですけど。この野菜、ちゃんと育てられてきたんだな、って」
「……そうですね」
「俺と同じだと思いました」マルコは少し照れたように笑った。「料理もそうじゃないですか。毎日作って、うまくいかない日もあって、それでも続けて——」
「いつの間に哲学者になったんですか」リーナが言った。
「違います。ただ思っただけです」
「マルコさんらしいですね」源三が静かに言った。
「どういう意味ですか」
「料理をしているとき、あなたはいつも何かに気づいている。食材からでも、人からでも」源三は夕日の方を向いた。「それがあなたの本当の才能だと思いますよ」
マルコは少しの間、黙っていた。
「……旦那に言われると、なんか本当のことみたいですね」
「本当のことですよ」
三人は夕日を背に、ライゼンへの道を歩いた。
街の灯りが、遠くに見え始めていた。
荷物は重かった。足は少し疲れていた。
それでも、足取りは軽かった。
---
その夜、桐嶋商会の台所では——バルトからもらった大根が、丁寧に刻まれていた。
マルコが鼻歌を歌いながら、包丁を動かしている。
リーナは隣の机で、タムへの訪問計画を手帳に書き込んでいる。
源三は帳場で、明日の段取りを考えながら、窓の外のライゼンの夜を眺めていた。
(少しずつ、ですね)
焦る必要はない。今日一つの農家と繋がった。明日はもう一つ。そうして少しずつ、クロード商会を通さない仕入れルートができていく。
台所から、良い匂いが漂ってきた。
大根の煮物だろうか。甘く、深い匂いだ。
「旦那、夕飯できますよ」
「ありがとうございます」
源三は帳簿を閉じ、立ち上がった。
---
**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 街道に野の花が白く咲き始めた朝】**
**農家との直接契約:一件(バルト農園)**
**紹介先:タム農園(明日以降に訪問予定)**
**クロード商会系列仕入れルート依存度:低減中**
根が、少しずつ深くなっていた。
---
*次回「エルザ、桐嶋商会の扉を叩く」*
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!とても励みになっています。




