第5話「桐嶋商会の昼は、今日も満席にはほど遠い」
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開業から、五日が経った。
桐嶋商会の昼は、今日も満席にはほど遠かった。
テーブルは四つ。椅子は十六脚。それに対して今日の来客は、正午を過ぎた時点で六人。うち三人は既に顔なじみになりつつある常連だ。
賑わっている、とは言えない。しかし静かすぎるとも言えない。
マルコはそれが、どうにも我慢できなかった。
「旦那」
昼の仕込みが一段落したタイミングで、マルコは帳場にいる源三に声をかけた。
「なんでもっと客が来ないんですかね」
「来ていますよ。六人」
「六人じゃないですか。席は十六あるのに」
「開業五日目で六人」源三は帳簿から目を上げた。「多いと思いますか、少ないと思いますか」
「少ないと思います」
「では、少ない理由はなんだと思いますか」
マルコは腕を組んだ。「……まだ知られていないから、ですかね」
「そうです」源三は頷いた。「では知られるためには、何が必要ですか」
「宣伝……?」
「一番の宣伝は何だと思いますか」
「……来てくれた人が、誰かに話してくれること」
「そうです」
源三は静かに続けた。
「今日来てくださった六人が、明日誰かに話す。その誰かが明後日来てくれる。商売の信用とは、そうして積み上がっていくものです。一日で百人来てもらうより、毎日確実に一人ずつ増える方が、根が深い」
マルコはしばらく黙っていた。
「……焦ってました、俺」
「分かっています」源三は帳簿に視線を戻した。「ですが今日来てくださった六人を、昨日より少しでも喜ばせることを考えてください。それだけで十分です」
「はい」
マルコは台所に引っ込んだ。
リーナが隣の席から、小声で言った。
「よく同じ話を何度でも、飽きずに説明できますね」
「マルコさんは素直ですから」源三は穏やかに答えた。「素直な人に説明するのは、苦になりません」
「……霧島様は寛大ですね」
「そうでもありません。ただ、人が成長する過程を見るのは好きですよ」
リーナは少しの間、源三の横顔を見ていた。それから、手帳に何かを書いた。
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昼を過ぎたころ、初めて見る客が入ってきた。
六十代ほどの、がっしりした体格の男だ。背はそれほど高くないが、横幅がある。腕が太く、手に古い火傷の跡がある。鍛冶職人の手だ、と源三は思った。
男は入り口で立ち止まり、帳場を見渡した。それから、腕を組んだまま席に座った。
「飯屋ができたと聞いてきてやった」
声が低く、ぶっきらぼうだ。
「いらっしゃいませ」源三は立ち上がった。「本日のお食事をお持ちします」
「選べないのか」
「今は一種類のみです。申し訳ありません」
「ふん」
男は不満そうな顔をしたが、出て行こうとはしなかった。
リーナが料理を運んできた。今日のマルコの一品は、骨付き肉の煮込みと焼きたてのパン、季節の野菜を添えたものだ。
「お待たせしました」
「……エルフか」
「はい」
「珍しいな」男は料理をじろりと見た。「冷めてないか」
「作り立てです」
「ふん」
それだけ言って、男は黙って食べ始めた。
リーナは戻りながら、源三に小声で言った。「感じの悪い人ですね」
「そうですね」源三は小声で返した。「でも、料理から目を離していません」
リーナが振り返ると、確かに男は一心不乱に食べていた。周囲のことなど目に入っていないように、ただ皿の上だけを見ている。
男は食べ終えると、皿を横に置いた。
それから、無言のまま手を上げた。
「もう一杯」
リーナは少し目を見開いた。「……同じものでよろしいですか」
「ああ」
二杯目が来た。また黙って食べる。また食べ終える。また手が上がる。
「もう一杯」
リーナは源三を見た。源三は小さく頷いた。
三杯目が来た。今度は少し、男の食べ方が変わった。急いでいない。味わっている。
食べ終えて、初めて男は口を開いた。
「いくらだ」
「今日は試験提供期間ですので、お代は」
「受け取れ」男は硬貨を数枚、テーブルに置いた。「タダで食うつもりはない」
「……ありがとうございます」
「ゴードンだ」男は立ち上がりながら言った。「鍛冶をやっている。また来る」
「お待ちしています」
ゴードンは振り返らずに出て行った。
マルコが台所から顔を出した。「三杯おかわりした人、誰ですか」
「鍛冶職人のゴードンさんだそうです」
「……嬉しいな」マルコは照れた。「何も言わないけど、三杯食べてくれた」
「それが答えです」
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夕方近く、また見知った顔が現れた。
ドガンだった。
昨日と同じ服で、同じ仏頂面で、入り口に立っている。
「いらっしゃいませ」源三が立ち上がった。「昨日もありがとうございました」
「……ギルドの帰りだ」ドガンはぶっきらぼうに言った。「たまたま通りかかっただけだ」
「もちろんです。どうぞ」
ドガンは席に座り、マルコの料理を注文した。黙って食べる。途中で一度、目を細めた。それだけだった。
食べ終えて、立ち上がりかけて——ドガンは少し止まった。
「……持ち帰りはできるか」
源三は少し間を置いた。
「できます。どのくらいの量になさいますか」
「一人分でいい」
「かしこまりました」
マルコが料理を包み始める。源三はドガンの隣に立ったまま、さりげなく言った。
「先日おっしゃっていた、美味い飯屋がないとうるさい方のために、でしょうか」
ドガンは少しの間、黙った。
「……娘だ」
「そうですか」
「最近、食が細くて」ドガンは腕を組み、窓の外を見た。「好き嫌いが多いわけじゃないんだが、食欲がないらしくて。心配していた」
「それは」
「別に大したことじゃない」ドガンは素早く言った。「ただ、美味い飯があれば少しは食べるかと思っただけだ。それだけだ」
「もちろんです」
「お前には関係ない話だ」
「もちろんです」
源三は同じ言葉を繰り返した。ドガンはちらりとこちらを見て、何かを言おうとして、やめた。
マルコが包みを持ってきた。
「スープも入れておきました。温かいうちに食べてもらえれば」
「……余計なことを」
「胃に優しい味にしてあります。食欲がないときにも入りやすいと思います」
ドガンは包みを受け取り、また黙った。それから、ぼそりと言った。
「……口うるさい娘でな。何を持って帰っても文句を言う」
「そうですか」
「絶対に何か言う。味がどうとか、量がどうとか」ドガンは立ち上がった。「だがまあ……食べれば、それでいい」
「ご一緒に召し上がっていただければ、なお良いと思います」
ドガンはもう何も言わなかった。ただ、かすかに——本当にかすかに——口元が動いた。
それが笑みだったかどうかは、源三には分からなかった。
ドガンは包みを抱えて、足早に去っていった。
マルコが台所の入り口から見送りながら言った。「なんか……いい人ですね、あの人」
「そうですね」源三は頷いた。「ぶっきらぼうなだけで」
「娘さん、元気になるといいですね」
「なりますよ」
源三はそう答えた。確信を持って。
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夜、三人で夕食を食べながら、リーナが手帳を開いた。
「本日の収支を報告します」
「どうぞ」
「来客十一名。売上は金貨二枚と銀貨十三枚。食材費を差し引いた利益は銀貨八枚。食材の在庫は——」リーナは一度、手を止めた。「霧島様、それとは別に、ご報告があります」
マルコが顔を上げた。リーナの声が、少しだけ固くなっていた。
「仕入れを打診していた業者のうち、三件から断りが来ました」
「理由は」
「どこも同じです。『取引先の都合で』という表現でした」
沈黙が落ちた。
マルコが眉を寄せた。「それって……」
「クロード商会からの圧力だと思います」リーナは静かに言った。「先方の業者はクロード商会との取引があり、そこから圧力がかかっているとすれば——断るのは当然の選択です。巻き込まれたくないでしょうから」
「……嫌がらせじゃないですか」マルコの声に、熱が混じった。「そんなことまでするのか」
「するでしょうね」源三は落ち着いた声で言った。「商売の邪魔をするのに、直接手を出す必要はありませんから。兵糧を断てばいい」
「どうするんですか」
「別の道を探しましょう」
マルコは拳を握りかけて——源三の表情を見て、止めた。
焦っていない。怒ってもいない。ただ、次の手を考えている目だった。
「リーナさん、街の外の農家の情報はまとまっていますか」
「昨夜から調べています」リーナは手帳のページをめくった。「ライゼンの東側、街道沿いに農村が三か所あります。それぞれ主な作物と、現在の取引状況を整理しました」
「さすがです」
「農家というのは、直接取引をすることが多くないそうです。たいてい業者を通す。しかし——」リーナは一度、源三を見た。「業者を通さない方が、農家にとっても利益になるはずです。中間マージンがなくなりますから」
「そうです」源三は頷いた。「農家が直接売れる場所を作る。我々が直接買いに行く。両方にとって、悪くない話のはずです」
「でも、クロードが農家にも圧力をかけてくるんじゃないですか」マルコが言った。
「かけてくるかもしれません」
「じゃあ……」
「相手が一手打てば、こちらも一手打つだけです」源三は穏やかに言った。「焦らなくていいですよ、マルコさん。まだ向こうも、こちらを本気の相手だと思っていないでしょうから」
「……本気の相手じゃないって、馬鹿にされてるってことですよね」
「今は、そう思わせておいた方がいい」
源三は湯気の立つカップを両手で包んだ。
「本気で潰しにかかるのは、相手が脅威だと認識したときです。今はまだ、様子見の段階。ならばこちらも、静かに根を張る時間として使えばいい」
マルコは少しの間、黙っていた。
それから、「……旦那ってなんで、そんなに落ち着いていられるんですか」と言った。
「長く生きると、焦ることが減ります」
「いくつなんですか」
「今世では四十代ですが」
「今世?」
「……なんでもありません」
リーナがかすかに口元を引き締めた。マルコは首を傾げたが、追及はしなかった。
「明日、農家に行きましょう。マルコさんも来てください。食材の声が一番役に立つのは、産地で直接見るときです」
「行きます」マルコは即答した。「誰より役に立ちます」
「リーナさんは」
「当然、同行します」リーナは手帳を閉じた。「交渉の記録が必要ですから」
「ありがとうございます」
三人でしばらく、カップを傾けた。
マルコが思い出したように笑った。「そういえば、今日のゴードンさん。三回おかわりしてたの見ましたか」
「見ていました」とリーナ。「正確には三回と半分です。最後は少し残していました」
「半分? なんで数えてるんですか」
「記録しています」
「几帳面すぎる……」
「秘書の仕事ですから」
「三杯半かあ」マルコは嬉しそうに笑った。「また来てくれますかね」
「来ますよ」源三は答えた。「あれだけ食べた人が、来ない理由がありません」
ろうそくの火が揺れた。
外は静かで、ライゼンの夜が深くなっていく。
小さな商会の窓から、明かりが漏れていた。
誰かがそれを見ていたとしたら——廃屋だった建物に、確かに人の気配がある、と思っただろう。
それで十分だった。
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**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 雲ひとつない、よく晴れた日】**
**累計来客:三十二名**
**常連と呼べる顔:七名**
**仕入れ業者との交渉:三件、難航**
**明日の予定:農村への直接交渉**
ライゼンで最もみすぼらしかった商会は、少しずつ、本当に少しずつ——根を張り始めていた。
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*次回「農村にて、桐嶋源三は畑の端に立つ」*
今日もお読みいただきありがとうございました!
次回は明日(26日)21時頃に更新予定です。お楽しみに!
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