第4話「桐嶋商会、看板に名を刻む」
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朝食の後片付けを終えたマルコが、鼻歌まじりに台所を磨いていた。
昨夜から何かが変わった、とリーナは思っていた。
マルコの動きが違う。昨日、扉を叩いてきたときの切羽詰まった顔が嘘のように、今朝の彼には落ち着きがある。迷いがない。包丁の扱いも、かまどの前での立ち居振る舞いも——全てが「自分の場所にいる人間」の動きだ。
(これが、天職付与の効果)
リーナは手帳に記録しながら、そっと観察した。
「マルコさん」
「はい」
「昨夜から今朝にかけて、何か変わった感覚はありますか」
マルコは磨く手を止め、少し考えた。
「食材の声が……はっきり聞こえるようになった感じです。前は『なんとなく』だったのが、今は言葉みたいに分かる。この肉は今日中に使え、この野菜はあと二日持つ、とか」
「具体的に、ですね」
「ええ。あと、料理の手順が頭の中に勝手に浮かんでくる。これとこれを合わせたらどうなるか、火加減はどうするべきか——考える前に分かる感じ、というか」
リーナは手帳に書き留めた。
「霧島様に報告します」
「あの人は凄いですね」マルコは再び台所を磨きながら言った。「昨日会ったばかりなのに、なんか……ずっと昔から知ってる人みたいな感じがして」
「そうですか」
「リーナさんはどうですか。霧島様のこと、最初どう思いました」
リーナは少しの間、手を止めた。
「……変な人だと思いました」
「ははっ、正直だ」
「でも」リーナは続けた。「初めて、ちゃんと話を聞いてもらえた、と思いました」
マルコは何も言わなかった。ただ、うん、と小さく頷いた。
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源三とリーナは、午前のうちに商人ギルドへ向かった。
マルコは留守番だ。「昼食の仕込みがある」と言って、台所に篭っている。
ライゼンの商人ギルドは、街の中心部に近い石造りの建物だった。かつては賑わっていたのだろう、建物自体は立派だが、今は受付に人が少ない。
「登録をしたいのですが」
源三は受付の男に声をかけた。三十代ほどの、目つきの細い男だ。
男は源三をじろりと見た。それから、リーナを見た。エルフだと気づいたらしく、少し目を細める。
「新規登録ですか。書類はお持ちですか」
「はい」
リーナが鞄から書類の束を取り出した。きっちりと束ねられ、必要な順に並んでいる。
男は受け取り、ぱらぱらとめくった。最初は流し読みしていたが、途中で手が止まった。
「……全部、揃ってますね」
「はい」
「身分証明書、商会設立の誓約書、初期資産証明、前商会との関係性の申告書——これは任意書類ですが」
「念のため同封しました」リーナは静かに言った。「他に必要なものがあれば」
男は書類を見たまま、少し黙った。
(難癖をつける隙がない、と思っているのでしょうね)
源三は表情を変えずに見ていた。おそらくこの男は、クロード商会から話を通されている。新しい商会の登録を遅らせるか、書類の不備を理由に追い返せと言われていたはずだ。
だが、完璧に揃った書類の前では、言いがかりをつける余地がない。
「……少々お待ちください」
男は書類を持って、奥に引っ込んだ。
「揃えておいてよかったです」リーナが小声で言った。
「ありがとうございます。昨夜、遅くまで準備していたのですね」
「秘書の仕事ですから」
リーナはそっぽを向いた。耳が少し赤い。
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男が戻ってくるまで、しばらくかかった。
それだけ、あちこちに話を通していたのだろう。源三は待合の椅子に座り、静かに建物の中を観察していた。
ギルドの内部は思ったより広い。登録商会の一覧が壁に貼ってある。クロード商会の名前が、一番目立つ場所にある。
それから、奥の扉が開いた。
男と一緒に出てきたのは——別の人物だった。
五十代ほどの、大柄な男。かつては相当に鍛えていたと分かる体格で、傷跡がいくつか顔に残っている。眉が太く、口元は固い。ひと目で「只者ではない」と分かる風格があった。
男は源三を見た。値踏みするような目だったが、敵意ではない。
「桐嶋商会、というのはあんたか」
「はい。桐嶋源三と申します」
源三は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「ドガンだ。ここのギルドマスターをやっている」
ドガンは源三の正面に立ち、しばらく黙ってそのまま見つめた。
値踏みというよりも——どこか、確認するような目だった。
「ガルド商会の跡地を引き継いだんだな」
「そうです」
「何年ぶりだろうな、あそこに灯りがついたのは」ドガンは腕を組んだ。「ガルドの旦那には世話になった。良い商人だったよ。……あの終わり方は、納得がいかなかったが」
「そうですか」
「あんたは知っているか。あの商会がどうして潰れたか」
「おおよそは」
ドガンは少しだけ目を細めた。
「……何者だ、あんたは」
「ただの商人です。これから、ライゼンで商売をしようとしている」
「ただの商人には見えんがな」
源三は穏やかに笑った。
「そう言っていただけると、励みになります」
ドガンはしばらく源三の顔を見ていた。それから、小さく鼻を鳴らした。
「登録、通してやれ」受付の男に向かって言う。「書類は全部揃ってるんだろう」
「は、しかしクロード——」
「通せと言った」
低い声だった。男は一瞬竦んで、「……かしこまりました」と引っ込んだ。
ドガンは源三に向き直り、「五等での登録になるが、等級を上げる手続きは追って」と続けた。それから、ふと口調が少し変わった。
「……商会で、飯を出すつもりがあるか」
「はい。本日の昼から、試験的に」
「ほう」ドガンは少し眉を動かした。「料理人を雇ったのか」
「昨日、仲間になりました」
「……そうか」
ドガンはもう一度、源三をじっと見た。それから、独り言のように言った。
「あいつが最近、ライゼンには美味い飯屋がないとうるさくてな」
「あいつ、とは」
「娘だ」ドガンの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。気づかなければ分からないほどの変化だったが、源三は見逃さなかった。「口がうるさいんだ、昔から。飯のことになると特に」
「そうですか」
「……別に、来いと言っているわけじゃない」
「もちろんです」
「ただ」ドガンは踵を返しながら言った。「良い飯を出すなら、悪くはない、という話だ」
源三は静かに頭を下げた。
「ご期待に添えるよう、努めます」
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登録証を受け取り、商会に戻ると、台所から既に良い匂いがしていた。
「おかえりなさい!」マルコが顔を出した。「うまくいきましたか」
「おかげさまで」
「リーナさんが書類を全部準備してたんですよね。流石です」
「当然のことをしただけです」リーナは鞄を置いた。「それより、看板は」
「ああ、そうだ」マルコは台所から木箱を取り出した。「彫刻刀、物置にありました。昔、趣味で彫り物をやってたんで、俺がやりましょうか」
「頼めますか」
「任せてください」
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三人は帳場の前に、白紙の看板を置いた。
マルコが彫刻刀を手に取り、「桐嶋商会」と文字を書いてみせる。木の板に、丁寧に、しかし躊躇なく刃を入れていく。
リーナは黙って見ていた。源三も黙って見ていた。
しばらくして、マルコは彫刻刀を置いた。
「できました、旦那」
板には、端正な文字が刻まれていた。
太すぎず、細すぎず。職人の仕事だ。
「上手いですね」リーナが言った。珍しく、素直に。
「でしょ」マルコは照れた。「師匠の店で修行中、暇な時間に板に文字を彫って遊んでたんです。まさか役に立つとは思ってませんでしたけど」
「何が役に立つか、分からないものですね」源三は看板を持ち上げた。
三人で外に出て、商会の入り口に看板を掛けた。
桐嶋商会。
白木に刻まれた四文字が、春の日差しを受けて静かに輝いている。
リーナが空を見上げた。
「……霧島様」
「はい」
「正式に、始まりましたね」
「ええ」源三は看板を眺めたまま、静かに答えた。「ようやく」
マルコが腕を組んで看板を見上げ、「よし」と言った。それだけだったが、その一言に全てが込もっていた。
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昼食の準備が整ったのは、正午少し前だった。
マルコが扉を開け放つ。台所からの匂いが、一気に通りに広がった。
最初の五分、誰も来なかった。
十分経っても、来なかった。
「……焦らなくていいですか」マルコがそわそわしながら源三に聞いた。
「焦らなくて良いです」
「でも、せっかく作ったのに」
「最初から行列ができる商会は、ほとんどありません」源三は帳場の椅子に座ったまま答えた。「今日は、来てくださった方を大切にすれば十分です」
そのとき。
入り口に、小さな影が現れた。
二話で看板を磨いていたときに話しかけてきた子どもだ。あのときの三人の中の一人——一番度胸がありそうだった、黒髪の男の子。後ろに、母親らしき女性が控えている。
「……あの、へんなおじさん、いますか」
「います」源三は立ち上がった。「いらっしゃいませ」
男の子はおそるおそる入ってきて、辺りを見渡した。昨日まで廃屋だったとは思えないほど、帳場は整っている。そして台所から流れてくる匂いが、子どもの鼻をくすぐった。
「……美味しそう」
「食べていきますか」
母親が頭を下げた。「あの、すみません。子どもが、昨日からずっとここのことを話していて。値段はおいくらで……」
「今日は試験提供ですので、お代はいただきません」
「え」
「ただし、感想をいただければ」
母親は目を丸くし、それから「そんな、申し訳ない」と言ったが、源三は「お客様が一番のお役立てです」と続けた。
マルコが台所から顔を出した。「何人前作ればいいですか」
「二名様です」
「任せてください」
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子どもが最初の一口を食べたとき、動きが止まった。
それから、勢いよく顔を上げた。
「美味しい!!」
店の中に、その声が響いた。
母親も一口食べて、黙った。それから、目が少し潤んだ。
「……久しぶりに、こんな味の料理を食べました」静かな声で言った。「この街が元気だったころ、よく食べていた味に似ています」
マルコは厨房の中で、その言葉を聞いていた。
動きが、少し止まった。
(人を笑顔にする。それだけで、もう他のことはどうでもよくなる)
昨日自分で言った言葉が、今の光景と重なった。
源三は静かにテーブルの傍に立ち、二人が食べ終わるのを待った。
子どもが帰り際、振り返って言った。
「また来ていい?」
「もちろんです。いつでも」
「……絶対来る」
二人が帰っていく。
入れ違いに、さっきまで遠巻きに商会を見ていた人影が、ゆっくりとこちらに近づき始めていた。
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ライゼンの外れに、クロード商会の本拠がある。
街で一番立派な建物だ。商会というより、貴族の屋敷に近い。
その一室で、男が報告を受けていた。
「ガルド商会の跡地で、新しい商会が登録された、と」
「はい。桐嶋商会と申します。桐嶋源三という男が会頭で、今日から食事の提供も始めたようです」
「桐嶋」
男は椅子の背もたれに体を預け、指を組んだ。
上品な顔立ちだった。年齢は四十代半ばほど。笑みを絶やさない。だが、その目は笑っていない。
「ギルドの登録は止めなかったのか」
「書類が完璧に揃っていたようで……ドガンが直接通してしまいました」
「なるほど」男——グレインは、静かに笑った。「ドガンが動いたか。珍しい」
「どうなさいますか」
「急ぐことはない」グレインは窓の外、ライゼンの街を眺めた。「廃屋で始めた新参者だろう。半年も経てば自然に消える。ガルドと同じようにな」
「しかし」
「ただし」グレインは続けた。「少しだけ……興味が出た」
指を組んだまま、細く笑う。
「様子を見ておけ。それだけでいい、今は」
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**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 街道の桃の花が三分咲きになった日】**
**商人ギルド登録:完了(五等)**
**看板:設置完了**
**昼食の試験提供:実施 来客二名**
桐嶋商会の看板が、春の日差しの中でひっそりと輝いていた。
小さな始まりだった。だがこの街で商売を始めたどんな商人も、最初は必ずここから始まる。
源三はその夕暮れ、帳場に座って明日の段取りを組みながら、遠く窓の外を眺めた。
ライゼンはまだ、眠っている。
だが——少しだけ、動き始めていた。
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*次回「桐嶋商会の昼は、今日も満席にはほど遠い」*
今日もお読みいただきありがとうございました!
次回は明日(25日)の21時頃に更新予定です。お楽しみに!
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