第3話「マルコの事情と、料理人の矜持」
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帳場の椅子は三脚あった。そのうち二脚は昨日の掃除で使えると判断したもので、一脚は脚がぐらついていたので物置に戻してある。
源三はマルコを椅子に座らせ、自分も向かいに腰を下ろした。
「リーナさん、お茶をいただけますか」
「……お茶は昨日、物置で一袋だけ見つけましたが」リーナは棚の前で振り返った。「古いものですよ」
「構いません」
リーナはやや不服そうにしながら、湯を沸かし始めた。
マルコは落ち着かない様子で辺りを見渡していた。帳場は今朝の掃除で見違えるほど整っていたが、それでも廃屋には違いない。そんな場所で老若男女が普通に茶を飲もうとしているのが、どうにも状況に追いついていないらしい。
それから、ふとリーナに目が留まった。
「……え」
マルコは二度瞬きした。
「え、エルフ? 本物のエルフですか?」
「……見ての通りです」
「すごい! 耳が長い! 実在するんですね!」
「実在します」リーナは眉を寄せた。「失礼な人ですね」
「いや失礼じゃなくて、感動してるんです! エルフって王都でも見たことなくて——」
「感動の表明の仕方が失礼だと申しています」
「あ、すみません」
(私も最初は驚きましたが、声には出しませんでした)
源三は内心でそっと付け足し、口には出さなかった。
リーナが古いお茶を三つのカップに注いで持ってきた。香りはほとんどないが、温かい。マルコはそれを受け取り、ようやく少し落ち着いた顔をした。
「……改めまして、マルコです。二十三歳、一応、料理人です」
「桐嶋源三です。こちらはリーナさん、秘書です」
「よろしく」とリーナ。声は素っ気ないが、目は真剣にマルコを観察している。
「事情を、聞かせてもらえますか」
源三は静かに促した。
マルコはカップを両手で包み、少しの間黙った。それから、覚悟を決めたように顔を上げた。
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マルコの話はこうだった。
王都の老舗料理店で十年修行した。師匠には「もう教えることはない」と言われるまでになった。そこまでは良かった。
問題は、独立してからだ。
「料理さえ旨ければ、客は来ると思ってたんです」
マルコは苦い顔で続けた。
「でも食材費の計算とか、帳簿とか、仕入れ業者との交渉とか——全部苦手で。気づいたら毎月赤字で、それでも料理の質を落としたくなくて食材費だけは削らなかったら、半年で店が終わってました」
「借金は」
「金貨で五百枚ほど」
リーナが手元の手帳に数字を書き留めた。マルコはその動きを目で追い、「……几帳面なエルフですね」と呟いた。
「秘書ですから」とリーナ。
「なるほど」とマルコ。
「借金の相手は」と源三。
「食材の卸業者と、店の大家です。どちらも王都の人間なので、ライゼンまでは追ってこないと思いますが——」マルコは頭を掻いた。「いずれ返しに行かなきゃいけない。分かってます」
「そうですね」
源三は頷いた。責めるでも、慰めるでもなく、ただ事実として受け止める。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「なぜ、また料理をしたいんですか」
マルコは少し意外そうな顔をした。「なぜ、とは」
「店を潰して、借金を抱えて、それでもまだ料理人でいたい理由が、あるはずです」
マルコは黙った。
しばらくの沈黙のあと、少し照れたような、でも確かな声で言った。
「……俺の料理を食べた人が、笑顔になるんです」
源三は何も言わなかった。
「美味しいって言ってくれるとき——その顔を見ると、他のことはどうでもよくなる。借金も、失敗も、全部どうでもよくなるくらい、嬉しくなる。だから……だから、まだ料理をしたいんだと思います」
マルコは最後、少し声が小さくなった。恥ずかしかったのかもしれない。
(本物だ)
源三の中で、静かに確信が固まった。
前世から磨いてきた「人を見る目」が告げている。この若者の火は、本物だ。経営の才は皆無だが、料理への情熱と、人を喜ばせたいという本能——それは、決して学んで身につくものではない。
「一つ、試させてもらえますか」
「……試す?」
「料理を、見せてもらえますか」
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商会の奥に、台所があった。
長年使われていなかったが、かまどは無事で、鍋や包丁もいくつか残っていた。食材は、昨日リーナが帳簿整理の合間に物置を確認したもの——乾燥豆、塩漬けの肉の切れ端、玉ねぎが二つ、干した香草の束。
「こんなもので……」リーナが眉を寄せた。「まともなものができますか」
マルコは台所に入り、食材をひとつひとつ手に取った。
その瞬間、表情が変わった。
さっきまでの落ち着きのなさが消えて、代わりに——静けさが宿った。炎のような目が、しん、と澄んでいく。
(食材の声が聞こえている)
源三は黙って見ていた。
マルコは塩漬けの肉を手のひらで包み、しばらく目を閉じた。それから、手際よく動き始めた。肉を薄く切り、乾燥豆を水で戻し、玉ねぎを細かく刻む。香草はひとつまみだけ使い、残りは戻した。
「豆を先に煮て、火が通ったら肉と合わせる。この肉は直火より蒸らしの方が旨い——なんか、そんな気がして」
「気がする、というのは」
「なんか……分かるんです。この食材はこうした方がいいって、触ったときに」
リーナが手帳に何かを書いた。源三には彼女が何を書いたか分かった——「スキル関連の記録が必要」とでも書いたのだろう。几帳面なことだ。
台所に、じわじわと匂いが広がり始めた。
乾燥豆が香草の香りを吸って、塩漬けの肉の旨みが溶け出して——材料はどこにでもある粗末なものだというのに、なぜかとても豊かな匂いがする。
リーナが、わずかに鼻を動かした。
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三十分後、テーブルに三つの器が並んだ。
豆と肉を煮込んだ素朴なスープ。それだけだった。
マルコは「粗末なものですが」と言った。材料を見れば当然だ。
リーナは一口、スプーンを口に運んだ。
止まった。
「…………」
「リーナさん?」
「…………美味しい」
声が、少し上ずっていた。
源三も一口いただいた。温かく、深く、染み入るような味がした。乾燥豆がどうしてこれほど滑らかになるのか。塩漬けの肉の塩気がどうしてこれほど丁度いいのか。技術というより——素材の本質を引き出す、直感のような何かが働いている。
「そうですね」源三は器を置いた。「美味しい」
「……ほんとですか」マルコは目を丸くした。「こんな食材で?」
「こんな食材で、です」
マルコは照れたように頭を掻いた。
そのとき——源三はマルコを見た。
照れていた。喜んでいた。それと同時に、どこかに影がある。「また失敗するかもしれない」という翳りが、若い目の奥にまだ残っていた。
「マルコさん」
「はい」
「一つ、聞かせてください」
マルコが顔を上げる。
「料理をしているとき、あなたは幸せですか」
マルコは一瞬、ぽかんとした。それから、答えるまでに少し時間がかかった。
「……はい」
声が、わずかに震えていた。
「今も、料理をしながら——幸せでした」
源三は頷いた。
「ではもう一つ。また失敗するかもしれない、と思っていますか」
マルコは黙った。黙ったまま、少し目を伏せた。それが答えだった。
「そうですね」源三は静かに続けた。「失敗するかもしれません」
マルコがぴくっと顔を上げる。
「ただ——あなたが失敗したのは、経営が苦手だったからです。料理の腕が足りなかったからではない」
「……でも、俺が——」
「料理の才能と、経営の才能は、別物です」源三は穏やかに、しかしはっきりと言った。「自分が得意でないことを苦手な人間に任せるのは、恥ではありません。得意な人間が得意なことをやる。それが商売の基本ですよ」
マルコは何も言えなかった。
十年の修行。半年の失敗。「料理人を続けていいのか」という問いをずっと、誰にも言えないまま抱えてきた。それを——会って一時間も経たない人間に、見透かされていた。
「マルコさん」
源三は、姿勢を正した。
「あなたを、我が商会の料理長に任命します」
マルコの目が、大きく開いた。
「……え」
「受けていただけますか」
「りょ——料理長って、でも俺、今日来たばかりで、しかも借金もあって——」
「借金の整理は、追って一緒に考えましょう。今は一つだけ答えてください」
源三の声は静かで、揺るがなかった。
マルコは、しばらく固まっていた。
それから——何かが、弾けた。
体の奥から、熱いものが込み上げてくる感覚。台所に立ったとき「なんとなく分かる」と思っていた食材の声が——今、驚くほど鮮明に聞こえ始めていた。この香草はあの豆と合う。あの塩漬け肉は低温でゆっくり火を入れると別物になる。春に出回るあの根菜は——
「……はい」
マルコは、頭を下げた。
「料理長、やらせてください。旦那」
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その夜、マルコは商会の台所で動いていた。
物置にあった食材を全て確認し、何が使えて何が使えないかを仕分ける。足りないものを書き出す。明日の朝食の段取りを頭の中で組む。
「寝なくていいんですか」リーナが覗きに来た。
「眠くないんです」マルコは振り返った。「なんか、頭が冴えてる感じで」
「……そうですか」
「エルフさんも眠れないんですか」
「私は報告書を仕上げていました」
「几帳面ですね、本当に」
「秘書ですから」
二人はしばらく、台所で向き合っていた。
「あの……マルコさん、でいいですか」
「はい」
「借金のことですが——」リーナは手帳を開いた。「金貨五百枚。現在の商会の手持ちは三百枚。単純に不足しますが、霧島様は一緒に考えると言っていました。心配しすぎることはないと思います」
マルコは目を瞬かせた。
「……なんで教えてくれるんですか」
「あなたが仲間になったからです」リーナはさらりと答えた。「仲間の懸案は、商会の懸案です」
マルコは、少しの間黙っていた。
「……ありがとうございます」
「お礼は旨い飯で払ってください」
「任せてください」
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翌朝。
源三が階段を下りると、台所から匂いが漏れていた。
香ばしい。甘い。深い。昨夜の豆スープとは比べものにならない、豊かな匂いだ。物置に眠っていた食材から、どうすればこんな匂いが生まれるのか。
台所を覗くと、マルコが三人分の朝食を皿に盛っているところだった。パンと、野菜を炒めたもの、それに昨夜の豆の残りで作ったとおぼしきスープ。
「旦那、おはようございます」
「おはようございます。いつ寝たんですか」
「少しだけ。眠くなかったんで」
「料理長の仕事は、体が資本ですよ」
「はいはい」
リーナが下りてきた。テーブルに並んだ朝食を見て、一瞬足を止める。
「……昨日より、品数が増えていますね」
「余り物で作れるもの、全部作りました」マルコは頭を掻いた。「なんか止まらなくて」
三人で席についた。
源三は手を合わせ——前世からの習慣だ——一口食べた。
昨夜の豆スープが美味しかった。だが今朝の食事は、それとは次元が違った。野菜の炒め物は、どうしてこれほど甘いのか。パンは買い置きの固いものだというのに、温め方だけでここまで変わるのか。
(天職付与の効果が、存分に出ていますね)
リーナはパンを一口食べて、目を少し見開いた。
「……マルコさん」
「はい」
「このパン、昨日と同じものですか」
「そうですよ。ちょっと温め方を変えただけですが」
「……そうですか」
それだけ言って、リーナは黙々と食べ始めた。耳が心なしか、ぴんと立っている。
源三は窓の外を見た。
朝のライゼンの通りに、人影がちらほら出始めていた。みな同じ方向を向いている。商会のある方向を。
立ち止まって、鼻を動かしている。
(さて)
源三はスープを一口飲んだ。
商会の存在を街に知らせるのに、看板は昨日磨いた。あとは——こうして匂いが広がれば、それで十分だ。人は腹が減れば動く。これは前世でも今世でも、変わらない原理だった。
「マルコさん」
「はい」
「今日から、商会で食事を出しましょうか」
マルコが顔を上げた。リーナも手を止めた。
「本格的に動き出すには、まず人に来てもらわなければなりません」源三はカップを置いた。「食事は、人を引き寄せる最も誠実な方法の一つです」
「旦那……」マルコの目に、火が戻った。「俺、やれます」
「知っています」
源三は立ち上がり、窓を少し開けた。
朝の風が入り込み、台所の匂いを外へ運んでいく。
通りに立っていた人物が、商会の方を向き、首を傾げた。それから、一歩、こちらに近づいてきた。
(少しずつ、始まっていますね)
源三は小さく息をついた。
焦る必要はない。今日一日、明日一日、その積み重ねだ。商売とは信用であり、信用とは時間だ。前世でもそうだったし、この世界でも変わらないだろう。
廃屋だった建物に、今日初めて、本物の食事の匂いが漂っていた。
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**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 風が南から変わり、温もりが増した朝】**
**従業員:三名**
**商会名:未記入(本日中に記入予定)**
**本日の目標:商人ギルド登録、昼食の試験提供**
ライゼンで最もみすぼらしい商会が、今日初めて——煙突から煙を上げた。
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*次回「桐嶋商会、看板に名を刻む」*
第3話までお読みいただき、本当にありがとうございました!
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次回(第4話)は、5月24日の21時頃に更新予定です。
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