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第2話「桐嶋商会、まず掃除から始める」


---


 源三は日の出前に目を覚ました。


 別に意図したわけではない。長年の習慣というのは、転生しても消えないらしい。


 昨夜は二階の一室を最低限片付けて仮眠をとった。リーナは隣の部屋で寝ている——というより、気づけば帳簿を読み始めていて、いつの間にか机に突っ伏していた。


 源三は静かに階段を下り、帳場に出た。


 埃。蜘蛛の巣。割れた椅子。腐った棚板。


 どこから手をつけるか、考えるまでもなかった。


(まず、掃除から始めましょう)


 物置に、使えそうな箒が二本あった。源三はそのうち一本を手に取り、黙々と掃き始めた。


---


 どのくらい経ったころだろう。階段の軋む音がして、リーナが下りてきた。


 髪が少し乱れていて、目がまだ半分眠っている。机で寝落ちしたのだろう、頬に帳簿の跡がうっすら残っていた。エルフがそんな顔をするとは思っていなかったが、源三は特に指摘しなかった。


「……何を、しているんですか」


「掃除です」


「見れば分かります」


 リーナは帳場を見渡した。昨夜入ったときより、明らかに明るい。塵が消え、床が姿を現し始めている。


「なぜ霧島様が、ご自分で」


(霧島様、か)


 源三はわずかに目を細めた。特に何も言わなかった。


「人を雇ってやらせるべきでは」


「雇う人員も、雇う資金の余裕も、今はありません」源三は穏やかに答えた。「それに——」


 リーナに向き直り、静かに続ける。


「足元が汚れていると、判断も汚れますから」


「……どういう意味ですか」


「整理されていない場所では、整理された思考ができません。商売も同じです。まず手元を清潔にする。それが全ての基本ですよ」


 リーナはしばらく黙っていた。


 それから、もう一本の箒を手に取った。


「……手伝います」


「ありがとうございます」


「勘違いしないでください。霧島様が掃除をしているのを秘書が見ているわけにはいかない、それだけです」


「もちろんです」


 源三は笑わなかった。ただ、少しだけ箒を動かす速度が上がった。


---


 二人で掃除をするあいだ、会話はほとんどなかった。


 リーナは几帳面だった。隅から隅まで丁寧に掃き、棚の上の埃を布で拭い、割れた椅子を物置に運ぶ。黙々と、しかし手際よく。


(秘書の役職付与が、早くも出ていますね)


 源三は内心で頷いた。昨夜の帳簿整理といい、今朝の掃除の手際といい——リーナの動きは「仕事をこなす」ことに特化している。


 太陽が昇り、帳場に光が差し込んだとき、一階はおおよそ片付いていた。


「思ったより、使える建物ですね」リーナが天井を見上げた。「屋根の一部が傷んでいますが、構造自体は問題ない」


「雨が降る前に修繕したいですね」


「費用の試算は——」リーナは少し目を遠くにした。「帳簿に残っていた修繕費の記録から推測すると、金貨十五枚前後かと」


「ではそれを優先予算に入れましょう。リーナさん、後ほど書き留めておいてもらえますか」


「既に書きました」


 源三が振り向くと、リーナは小さな手帳を持っていた。掃除をしながら、並行してメモを取っていたらしい。


「……さすがですね」


「(耳を少し動かしながら)当然のことです」


---


 午前の光が安定してきたころ、リーナは机の前に腰を下ろした。


「霧島様、報告があります」


「どうぞ」


 源三は水桶で手を洗いながら答えた。


「ガルド商会の財務状況を整理しました」リーナは紙の束を差し出した。「一言でいうと——意図的に潰された可能性が高いです」


「ほう」


 源三は手を拭きながら隣に立ち、報告書を覗いた。きれいな字で、数字と分析が整然と並んでいる。昨夜から今朝にかけて、一睡もせずにまとめたのだろう。


「三年前から仕入れコストが不自然に上がっています。同じ業者からの同じ品が、市場価格の二割増しで記録されている。そして——」リーナは別の帳簿を開いた。「この業者はクロード商会の系列です」


「なるほど」


「嫌がらせで仕入れ値を吊り上げられ、経営が苦しくなったところへ別の工作が加わって——最終的にガルド商会は資金繰りに詰まった。そういうことだと思います」


 源三は少しの間、報告書を眺めた。


(やはり、そういう商会ですか)


 怒りはなかった。ただ、静かに状況を飲み込む。敵の手口が分かれば、対策が立てられる。それだけのことだ。


「よく一晩でここまで」


「寝ていませんので」リーナはさらりと答えた。「並行して処理できますから、大した手間ではありません」


「……リーナさん、眠ることも仕事のうちですよ」


「霧島様こそ、夜明け前から掃除をしていたではありませんか」


「それは……そうですね」


 珍しく言葉に詰まった源三を見て、リーナはかすかに唇の端を上げた。


---


 昼前、源三は外に出た。


 朽ちた看板を梯子で外し、地面に置いて磨き始める。古い「ガルド商会」の文字は消す。新しい名はまだ書かれていない。


 磨きながら、源三は通りを眺めた。


 人通りは少ない。商店はぽつぽつと開いているが、どこも活気がない。行き交う人々の表情が、一様に疲れている。十年前に大商会が倒れ、街の空気まで萎んでしまったかのようだ。


(なるほど。これが今のライゼンか)


「ねえ、おじさん」


 振り返ると、子どもが三人、そろりと近づいてきていた。十歳前後だろうか。廃屋に人が入ったことが気になったらしい。


「何してるの」


「看板を磨いています」


「なんで」


「商売をするので」


「あの廃屋で?」子どもが目を丸くした。「無理だよ。ずっと空き家だったもん。お化けが出るって話だよ」


「そうですか」源三は真顔で続けた。「それは困りましたね。お化けも商会に来るなら、お客として歓迎しますが」


 子どもたちが顔を見合わせ、それからどっと笑った。


「へんなおじさん!」


「よく言われます」


 笑いながら駆けていく子どもたちを見送り、源三は再び看板を磨いた。


 遠くで、大人たちがこちらを窺っているのが分かった。商店主だろう、数人が立ち話をしながらこちらに視線を向けている。


(まずは、存在を知ってもらうことから始めましょう)


 焦る必要はない。看板を磨き、顔を出し、少しずつ信用を積む。商売とはそういうものだ。一朝一夕で変わるものは、一朝一夕で崩れる。


---


 午後、男が二人やってきた。


 体格がよく、腕を組んで立っている。服にクロード商会の紋章が縫い込まれていた。


「おい、そこの」


 源三は手を止め、振り返った。


「はい」


「あの商会、お前が引き継いだのか」


「そうです。桐嶋と申します」


 男は源三を上から下まで眺め、鼻で笑った。白髪まじりの落ち着いた男。どう見ても商人には見えない。


「へえ。商人ギルドには登録したのか。ここで商売するなら五等以上の登録が必要だぞ。知ってるか」


「存じております。明日、伺う予定でした」


「明日?」男は眉を上げた。「今日じゃないのか」


「今日は掃除をしておりましたので」


 男は一瞬、拍子抜けした顔をした。廃屋を引き継いだ人間がのんびり「掃除していた」と答えるとは思っていなかったのだろう。


「……ギルドに登録しないで商売したら、この街じゃ干されるぞ」


「ご忠告、ありがとうございます」源三は穏やかに頭を下げた。「わざわざお時間を取らせてしまい、申し訳ありません。よろしければ、お茶でも」


 男は何か言おうとして、口を閉じた。


 怒鳴る隙がない。圧をかける余地がない。静かに微笑む男を前に、ただ間が抜けた顔で立っている。


「……いらん」


「そうですか。では、またいつでもどうぞ」


 男たちは踵を返し、足早に去っていった。


 その背中を見ながら、いつの間にか隣に立っていたリーナが小声で言った。


「……よく平然としていられますね」


「怒鳴られていないので」源三は磨き終えた看板を持ち上げた。「さて、看板を戻しましょうか」


「……名前、まだ書いていませんが」


「ええ。しばらくは白紙のままで」


「なぜですか」


「白紙の看板は、人の目を引きます」源三は梯子を立てかけた。「『あそこに何かできる』と思わせるだけで、今日のところは十分です」


 リーナは少しの間、白紙の看板を眺めた。


(霧島様は……本当に変わった人だ)


 そう思いながら、しかし——なぜだろう、妙に納得していた。


---


 夕暮れのライゼンは、橙色に染まって静かだった。


 帳場に戻った二人は、それぞれの仕事をしていた。源三は明日の商人ギルド登録に向けた書類を整理し、リーナは今日の記録をまとめている。ろうそくの火が揺れ、外では風が少し出てきていた。


「霧島様」リーナが顔を上げた。「本日の進捗をご報告します。一階の清掃、完了。帳簿整理、七割完了。仕入れ業者の不正記録、証拠として保全済み。看板の修繕、完了——ただし商会名は空白のままです」


「ありがとうございます。明日、名を入れましょう」


「決まっていますか」


「桐嶋商会で」


「……そのままですね」


「覚えやすいのが一番です」


 リーナはしばらく源三の横顔を見ていた。それから、小さく「そうですね」と言って、記録の続きを書いた。


 しん、とした静寂が続いた。


 悪くない夜だ、と源三は思った。一日目にしては十分すぎるほど動いた。明日はギルド登録、それから街の商流を調べ、仕入れルートの候補を絞り——


 どん、どん、と扉を叩く音がした。


 二人は顔を上げた。


 どん、どん、どん——今度はさっきより強く。


「開けてくれ! 頼む! ここに人がいるって子どもから聞いたんだ!」


 若い男の声だ。切羽詰まっていて、どこか必死な響きがある。


 源三は書類を置き、立ち上がった。


「開けましょうか」


「……借金取りかもしれませんよ」リーナが眉を寄せた。


「借金取りにしては、声が正直すぎます」


 源三は扉に向かった。閂を外し、ゆっくりと引く。


 そこに立っていたのは、若い男だった。二十代前半、厨師らしい白い服——ただし泥と何かのソースで盛大に汚れている——を着て、息を切らしていた。茶色の短い髪。目に、火がある。


 男は源三を見て、一瞬面食らった顔をした。それから、勢いよく頭を下げた。


「俺、マルコっていいます! 料理人です! 仕事をください! なんでもします! 皿洗いでも荷運びでも——でも料理だけは、俺に任せてください!」


 一息で言い切って、頭を上げる。


 源三はマルコを見た。


 泥だらけで、切羽詰まっていて、どこからどう見ても余裕のない若者。だが——その目の奥に、火が燃えていた。料理への、本物の火が。


(なるほど)


 源三はわずかに微笑んだ。


「どうぞ、中へ。まずお話を聞かせてください」


 マルコは目を瞬かせた。断られると思っていたのだろう。


「……い、いいんですか」


「扉を叩いてくださった方を、立ったままにするわけにはいきません」


 源三は一歩、脇に退いた。


 マルコは恐る恐る、しかし確かな足取りで、桐嶋商会の敷居を跨いだ。


---


**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春 軒先にツバメが一羽とまった朝】**


**清掃:完了**

**帳簿整理:七割完了**

**新規面談:一名**


 従業員候補の数は、まだ未定である。


---


*次回「マルコの事情と、料理人の矜持」*


第2話もお読みいただき、ありがとうございます!


すでに第3話も投稿済みですので、このままノンストップで続けてお楽しみください!

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