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第1話「廃屋と、落ちこぼれのエルフ」


--


 目が覚めたとき、最初に感じたのは木材の腐った匂いだった。


 桐嶋源三は、ゆっくりと身を起こした。


 埃だらけの床。崩れかけた天井から差し込む朝の光。積み上げられた古い帳簿の山。どこかの窓が割れているのか、春の冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。


(なるほど。これが転生というやつか)


 源三は埃をはたきながら立ち上がり、室内を見渡した。


 前世の記憶はある。八十三歳で天寿を全うし、病院のベッドの上で社員たちに「ありがとう」と言って目を閉じた——その感覚も、まだどこかに残っている。だが今の自分は、体の感覚からして四十代前後の男の姿らしい。


 不思議と、焦りはなかった。


 長年経営の世界に身を置いていると、想定外の事態に動じない胆力が自然と身につく。転生がその最たる例だとしても、まずは現状確認から始めればいい。それだけのことだ。


(ここは……商会か)


 建物は二階建て。一階は広い帳場と倉庫、二階は居住スペースといった造りだ。かつてはそれなりの規模だったのだろう。だが今は、埃と蜘蛛の巣と腐った木材が主な住人である。帳場の壁に、朽ちかけた看板が残っていた。


「——ガルド商会」


 かすれた文字で、そう書いてある。


(さて)


 源三は懐に手を入れた。すると、まるで最初からそこにあったかのように、一枚の羊皮紙が出てきた。


 広げると、こう書いてあった。


 『この世界へようこそ。あなたには【天職付与】のスキルを授けました。詳細は追々ご理解いただけるかと。あとはよしなに。——神より』


(ずいぶんと雑なご説明で)


 源三は小さく息をついた。「よしなに」とはいかにも無責任だが、文句を言える立場でもない。とりあえず、廃れた商会の建物と、懐に入っていた革袋——中には金貨が三百枚ほど——が、この転生に際して与えられたものらしかった。


(三百枚……まあ、ないよりはましですね)


 帳場の奥に水桶があった。覗き込むと、静かな水面に男の顔が映っていた。


 見覚えがある顔だ。


 四十代半ばの——自分の顔だった。経営に明け暮れていた現役時代、出張先のホテルの鏡で何度も見ていたあの顔。白髪が混じり、目元に刻まれたわずかな皺。当時は「老けたな」と思っていたが、改めて見るとなかなかどうして、悪くない。むしろ様になっている。


(この顔で行くわけですね。……悪くない)


 源三は顔を洗った。水の感触は生々しいほどリアルで、夢でないことを確認する。


 さて、と源三は改めて立ち上がった。


 まず建物の把握。次に立地の確認。それから——


 その時だった。


 二階から、物音がした。


---


 源三は音もなく階段を上った。


 ドアが一枚、わずかに開いている。中から、かすかな息遣いが聞こえる。


(人が、いますね)


 逃げる様子はない。ということは、この人物もここに気づいていて、それでも動けない理由がある——緊張か、疲労か、あるいはその両方か。


 源三はドアをノックした。


「おはようございます。入ってもよろしいですか」


 沈黙。


 それから、弾かれたような声が返ってきた。


「っ……だ、誰ですか!ここは私が先に——」


「失礼します」


 静かにドアを開ける。


 部屋の隅、壁際に、少女が膝を抱えて座っていた。銀色の長い髪。すっと通った鼻筋。そして、髪の隙間から覗く、長く尖った耳。


 源三は、わずかに目を瞬かせた。


(……耳が、長い)


 エルフだ。たぶん。おそらく、間違いなく。


 前世でエルフを見たことはない——当然だ。日本で生まれ育ち、漫画やアニメの中でしか知らない存在だった。実在するとは、頭では分かっていても、こうして目の前にすると話が別である。しかも絵で見るそのままの姿で、思ったより普通に座っている。


(なるほど。本当にいるのですね)


 内心の動揺を一息で飲み込み、源三は表情を戻した。


 見た目は十代半ばといったところだが、エルフの年齢はあてにならない。目の色は薄い緑で、今は警戒と疲労が入り混じった色をしている。服は安物で、靴の底が擦り切れていた。


 どう見ても、長旅の末に行き倒れる寸前の状態だった。


「……出て行ってください。ここは、私が先に見つけた場所です」


 声は毅然としているが、腹の虫が小さく鳴った。


 源三は表情を変えずに、懐から携帯食を取り出した。前の住人が残していたものだ。固いパンと、乾燥した果実。お世辞にも上等とは言えないが、食べられないよりはましだろう。


「お腹が空いているようですね。まずどうぞ」


 少女はじっとそれを見つめた。


 プライドと空腹が、彼女の中で戦っているのが分かった。


 やがて、空腹が勝った。


---


 少女の名はリーナといった。


 エルフの里の生まれだが、十年前に追い出された——正確には、「出て行かざるを得なかった」のだという。


「エルフは、魔力が全てです。魔力が高ければ里での地位が上がり、尊重される。でも私は……」


 固いパンをかじりながら、リーナは静かに続けた。


「百二十年生きて、魔力はほぼゼロのまま。里では『欠陥品』と呼ばれていました」


「なるほど」


「人間の街に来ても同じです。エルフを雇いたがる店は多いですが、みんな魔法を期待している。『魔法も使えないエルフに用はない』と言われ続けて……ここに流れ着きました」


 彼女は膝に顔を埋めた。


「百二十年。ずっと、自分が何の役にも立たないと思い続けてきました」


 源三は少しの間、黙っていた。


 窓の外で鳥が鳴いている。朝の光が、少しずつ部屋を明るくしていく。


(この子は、ただ間違った場所に置かれ続けてきただけだ)


 源三には、分かった。


 前世から磨き続けてきた「人を見る目」が、彼女を見た瞬間に静かに告げていた——この少女には、類まれな才能がある。ただそれが、誰にも気づかれていなかっただけで。


「一つ聞いてもいいですか」


「……何ですか」


「あなたは今、私たちが話したことを、全て正確に覚えていますか」


 リーナが顔を上げた。


「……え? それは、当然ですが」


「では、帳場に積まれていた帳簿の冊数は、いくつでしたか」


「二十七冊です。一番上の帳簿の背表紙には『ガルド商会 年次決算 王暦四百十二年』と書いてありました」


 源三はゆっくりと頷いた。


(やはり、そうか)


「では、もう一つ。今あなたの頭の中には、どのくらいの情報が同時に入っていますか」


 リーナは首を傾けた。


「……どういう意味ですか」


「例えば今、私の顔を見ながら、廊下の軋む音を聞いて、外の鳥の声を数えて、パンの残りが何口分かを計算して——そういったことが、同時にできていますか」


「……鳥は今、三羽います。パンはあと四口分。廊下は七段目が特に軋む。それが……普通ではないのですか」


「普通ではありません」


 源三は静かに立ち上がり、リーナの正面に腰を下ろした。


「リーナさん。一つ、お願いがあります」


「……なんですか」


「あなたに、役職を与えたい」


 リーナが眉を寄せた。


「役職……?」


「私はこれから、この商会を立て直します。そのために、あなたの力が必要です」


「でも私は——魔法が——」


「魔法は、私も使えません」


 源三は穏やかに、しかしはっきりと言った。


「私が欲しいのは魔法使いではありません。あなたの記憶力。あなたの情報処理の速さ。そしてあなたが百二十年かけて積み上げてきた、人を見てきた経験です」


 リーナは何も言えなかった。


 百二十年。誰一人、そんなふうに自分を見てくれた人はいなかった。「欠陥品」と言われ続けて、自分でもとっくにそう信じ込んでいたのに。


「——あなたを、我が商会の秘書に任命します」


 源三の声は静かで、しかし不思議な重みがあった。


「受けていただけますか、リーナさん」


 その瞬間、リーナの中で何かが弾けた。


 頭の中が、急速に澄み渡っていく。今まで霞がかかっていたような感覚が消えて、全ての情報が透き通ったガラスのように整然と並んでいく。この商会の構造、必要な修繕箇所、資金の概算、街の地理的優位性、仕入れルートの候補——気づけば頭の中で、何もかもが自然と整理されていた。


 これが、自分の本当の力なのか。


「……どうして、ですか」


 声が震えた。


「私は……ずっと、何の役にも立たないと——」


「役に立たない人間など、いません」


 源三は静かに続けた。


「ただ、正しい場所に置かれていなかっただけです。それは本人の責任ではない」


 リーナの目から、涙がこぼれた。


 止めようとしたが、止まらなかった。百二十年分が、一度に溢れ出るようだった。


 源三は特に慌てる様子もなく、懐から折り畳んだ布を取り出した。


「どうぞ」


「……ありがとう、ございます」


 リーナは受け取って、静かに涙を拭いた。


 長い沈黙の後、彼女は顔を上げた。目元が赤くなっていたが、その瞳には、今まで見たことがないような、静かな光が宿っていた。


「……分かりました。お受けします」


「よかった」


 源三は立ち上がり、崩れかけた窓の外、朝のライゼンの街を見渡した。


 廃れた石畳。くすんだ看板。活気をなくした通り。


「では、始めましょうか」


「……何を、ですか」


「商会の再建です。それと——」


 源三はリーナを振り返り、わずかに目を細めた。


「この街を、もう一度動かすことを」


 リーナは、その横顔を見た。


 廃屋の中で、埃まみれで、懐に金貨が三百枚しかない。どこからどう見ても、大した人物には見えない。


 なのに、なぜだろう。


 この人についていけば、何かが変わる——そんな確信が、じわじわと胸の中に広がっていた。


「……一つだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたは、何者なのですか」


 源三はしばらく考えるような間を置いてから、静かに答えた。


「前の世界では、経営をしておりました」


「……経営?」


「ええ。まあ——それなりに、長く」


 それだけ言って、源三は階段を下り始めた。


 リーナは少しの間、その背中を見つめていた。


 それから、ぎこちなく立ち上がり、その後を追った。


---


**【桐嶋商会 設立 王暦四百二十三年 春】**


**初期資金:金貨三百枚**

**従業員:二名**


 その日、ライゼンで最もみすぼらしい商会が、静かに産声を上げた。


---


*次回「桐嶋商会、まず掃除から始める」*

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!


スタートダッシュとして、今回は一気に第3話まで同時公開しています!

ぜひこのまま、次の第2話もお楽しみください。

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