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第10話「エルザに、役職を」


---


 ドガンが来たのは、約束の刻より少し早かった。


 いつもと同じ仏頂面で、いつもと同じ重い足音で入ってきて、帳場の椅子に腰を下ろした。腕を組み、テーブルの一点を見る。何も言わない。


 源三はお茶を出した。ドガンは一口飲んだ。また黙った。


 リーナが手帳を開いたまま、ちらりとドガンを見た。それから源三を見た。源三は小さく頷いた。


 しばらく、静かな時間が流れた。


 マルコが台所から顔を出した。「……ドガンさん、何か食べますか」


「いらん」


「そうですか」マルコはすぐ引っ込んだ。


 ドガンは組んだ手を、一度だけ強く握った。


「……俺は」ぽつりと言った。


「はい」


「お前に、頼みがある」


「伺います」


「エルザに——」ドガンは少しの間、止まった。「エルザに、正しい場所をやってくれ」


 源三は、黙って頷いた。


「俺には、もうできないことだ」ドガンは低く続けた。「あいつが何者か、分かっていた。分かっていたから——怖かった。だから教えるのをやめた。それが間違いだったと、今は分かる」


「ドガンさん」


「なんだ」


「エルザさんを守りたかったのでしょう」


「……そうだ」


「それは、間違いではありません」


 ドガンは源三を見た。


「ただ——」源三は穏やかに続けた。「その守り方が、エルザさんに合っていなかっただけです」


 長い沈黙が落ちた。


 ドガンは視線を落とした。大きな手が、膝の上でゆっくりと開かれた。


「……そうだな」


 扉が開いた。


---


 エルザが入ってきて——ドガンを見て、止まった。


「……お父さん?」


「ああ」


「なんで」


「呼ばれた」


 エルザはドガンを見て、源三を見た。源三が「どうぞ」と椅子を示した。エルザは少し迷ってから、ドガンの隣に座った。


 微妙な距離が、二人の間にあった。


 源三が口を開いた。


「エルザさん。先日、ここにいてもいいかと聞いてくれましたね」


「……はい」


「今日、その答えをきちんとお伝えしたいと思って、お二人に来ていただきました」


 エルザはドガンをちらりと見た。ドガンは前を向いたまま、何も言わない。


「ただ——その前に」源三はドガンの方を向いた。「ドガンさん、エルザさんに、言いたいことがあるのではないですか」


 ドガンが眉を動かした。


 長い間があった。


 マルコが台所で何かをそっと置く音がした。リーナのペンが、止まっていた。


「……エルザ」


「なに」


 ドガンは前を向いたまま、低く言った。


「俺は——間違っていた」


 エルザが、かすかに息を飲んだ。


「お前に才能があると分かっていた。だから教えるのをやめた。怪我をさせたくなかった。危ない目に遭わせたくなかった」ドガンは続けた。「だがそれは——お前が決めることだった。俺が決めることじゃなかった」


 エルザは何も言わなかった。


「二十年、悪かった」


 また、沈黙。


 エルザは少しの間、テーブルの上の自分の手を見ていた。


 それから、鼻をすすった。


「……馬鹿みたい」


「ああ」


「謝るなら、もっと早く言ってよ」


「言えなかった」


「なんで」


「……格好がつかないだろうが」


 エルザは一度、目を手の甲でぐいと拭った。それから顔を上げた。目が少し赤い。しかし声は、もう揺れていなかった。


「分かった。もういい」


「そうか」


「でも——もう一回だけ言う」エルザはドガンを真っ直ぐに見た。「私は、ずっとお父さんみたいになりたかった」


 ドガンは何も言わなかった。


 ただ、その大きな手が——エルザの頭の上に、一度だけ、置かれた。


 すぐに離れた。それだけだった。


 しかしエルザは、目を細めて、少しだけ笑った。


---


 マルコが台所でこっそり目を拭いているのを、リーナだけが見ていた。


 リーナは何も言わなかった。ただ、手帳のページを静かにめくった。


 ドガンが立ち上がった。


「……俺は帰る」


「ゆっくりしていかれますか」と源三が聞いた。


「仕事がある」ドガンは立ち上がり、扉の方へ歩き始めた。エルザのそばを通るとき、一度だけ、「好きに生きろ」と言った。


 それだけだった。


 扉が閉まった。


 エルザはしばらく、扉を見ていた。


 それから、深く息をついた。


「……霧島さん」


「はい」


「話というのは」


「はい」源三は立ち上がった。「改めて、お聞きします。エルザさん、我々の商会に加わっていただけますか」


「……薬草屋の仕事は」


「続けてください。ただ——それとは別に、あなたにしかできないことがある」


 エルザは源三を見た。


「我々の商会は、これから本格的にクロード商会と対立します。昨日、王都商務省に証拠を渡しました。相手は動き始めるでしょう。そのとき——」


「守る、ということですか」


「はい」


「私が」


「あなたが」


 エルザは少しの間、黙っていた。


「……できるかどうか、分かりません」


「昨日、あなたの体は動いていましたよ」源三は穏やかに言った。「今日も、一昨日も、その前も。体はとっくに知っているんだと思います。あなたが何者か」


 エルザは自分の手を見た。


 一度、拳を作った。


「……分かりました」顔を上げた。「やります」


「ありがとうございます」源三は頷いた。「では——一つ、お願いがあります」


「なんですか」


「役職を、受けてください」


---


 源三はエルザの前に立った。


 帳場が、静かになった。マルコが台所の入り口に立っている。リーナがペンを置いた。


「エルザ・ドガン」


 源三の声が、少し変わった。普段の穏やかさはそのままだが、どこか——重みが増した。


「あなたを、桐嶋商会の護衛頭に任命します」


 エルザが目を上げた。


「商会の人間を守り、取引を守り、この場所を守る。それがあなたの役職です。受けていただけますか」


 エルザは少しの間、源三を見ていた。


「……護衛頭」


「はい」


「私が、ですか」


「あなたが」


 エルザは一度、目を閉じた。


「……受けます」


 その瞬間だった。


 エルザの体の中で、何かが——弾けた。


 表現するのが難しい感覚だった、と後から本人は言う。突然、視界が広がった。室内の全員の位置が、自然と頭に入ってくる。扉の向こうの気配が分かる。窓から差し込む光の角度で、時刻が読める。自分の体の重心が、完璧に感じ取れる。


 ずっとそこにあったものが、ようやく——目を開けた。


「……あ」


 エルザが、小さく声を漏らした。


「どうですか」と源三が聞いた。


「……なんか」エルザは自分の手を見た。「全部、見える」


「そうですか」


「室内の全員の位置が——霧島さんが右に三歩、リーナさんが左後方の机、マルコさんが台所の入り口……扉の外に、猫が一匹」


「猫?」マルコが扉を開けた。本当に猫がいた。「ほんとだ」


「窓の外の通りに、人が四人。うち一人が立ち止まっています。気になる動きです」


 リーナが窓から確認した。「……本当ですね。荷物を持って立っています」


「ただの旅人だと思いますが、念のため」エルザは視線を室内に戻した。「すごい」独り言のように言った。「ずっとこんなふうに見えるんですか、世界が」


「これがあなたの本来の目です」源三は穏やかに言った。「正しい場所に置かれると、そういうものです」


 エルザは少しの間、室内を見渡した。


 それから——リーナを見た。


 じっと、見た。


 リーナが手帳から顔を上げた。「……何ですか」


「リーナさんって」エルザがつぶやいた。「細いですね。華奢というか……首とか、すごく」


「突然何を」


「守らないといけない、という気持ちが——」エルザは胸に手を当てた。「湧いてくる。本能的に」


「結構です」


「いや、でも本当に。護衛頭として——」


「結構と言っています」


 エルザは立ち上がった。リーナの方へ、まっすぐ歩いた。


 リーナが椅子を少し引いた。


「エルザさん、距離が」


「リーナたん」


 リーナが固まった。


「なんですか今の呼び方は」


「リーナたん、でしょう。そう呼びたくなった」


「呼ばないでください」


「なんで」


「なんでではありません。リーナたんなどという呼び方は——」


「リーナたん」


「——聞いていますか」


「聞いてます。リーナたん」


 リーナが源三を見た。目が「何とかしてください」と言っていた。


 源三は穏やかに、しかし助ける気配もなく言った。「護衛頭は、商会の人間を守ることが仕事です。リーナさんのことを大切に思ってくれているのは良いことです」


「霧島様」


「はい」


「それは庇護であって、リーナたんとは別の話です」


「そうですかね」


「そうです」


 エルザがリーナの隣の椅子を引いて、当然のように座った。


「これからよろしく、リーナたん」


「……よろしくと言う前に、その呼び方を」


「じゃあリーナちゃん」


「それも駄目です」


「リーナさま?」


「それも違います」


「リーナ」


「……それは、まあ」


「リーナたん」


「話を聞いてください!」


 マルコが台所の入り口で、声を殺して笑っていた。源三は帳場に戻って帳簿を開いた。外では、さっきの猫がまだ扉の前にいた。


---


 その夜。


 エルザは結局、夕食まで桐嶋商会にいた。帰ろうとするたびに「護衛頭として商会の安全を確認してから帰ります」と言って動かなかった。


 夕食の間も、リーナの隣に座った。


「リーナたん、野菜食べないと」


「食べています」


「でも肉が少ない。体を作らないと」


「私は戦いません」


「でも護衛する側としては、護衛対象の体力も管理——」


「してもらわなくて結構です」


 マルコがエルザに肉を追加で盛った。「エルザさん、ちゃんと食べてください。護衛頭が倒れたら困る」


「そうだ、リーナたん、聞いた? 料理長もそう言ってる」


「私への話ではありません」


 源三は静かにスープを飲みながら、その賑やかさを聞いていた。


(開業のころは、夜はずいぶん静かでしたね)


 二人と一人が言い合いをしている。マルコが楽しそうに笑っている。


 エルザが「リーナたん!」と呼ぶたびに、リーナが「呼ばないでください」と返す。それが繰り返される。


 リーナは嫌がっている。本当に嫌がっている。


 だが——その耳が、完全には伏せていないことに、源三は気づいていた。


(悪くない賑やかさです)


 源三は帳場の方を見た。


 今夜も、記録することがたくさんある。


---


**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 春の終わり 初夏の風が一度だけ吹いた日】**


**天職付与 第三号:エルザ・ドガン → 【護衛頭】**

**従業員:四名**

**商会の守り:整いつつある**

**リーナさんへの呼びかけ方:要検討(本人談)**


 桐嶋商会は、少し——賑やかになった。


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*次回「嵐は夜にきた」*


いつもお付き合いいただき感謝です!次回も楽しんでいただけるよう頑張ります!

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