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第13話「桐嶋商会、湯に入る」


---


 出発の朝、エルザはすでに戻っていた。


 夜明けとともに宿の裏手の山道に入り、籠いっぱいに薬草を摘んで帰ってきた。「街では採れないものが二種類ありました」と嬉しそうに言いながら籠を下ろした。マルコが「それ、料理に使えますか」と聞くと「使えます」と即答した。


 源三が「出発は昼前にしましょう」と言うと、エルザはリーナの方を向いた。


「リーナたん、荷物は持ちます」


「自分で持てます」


「護衛頭として——」


「荷物の護衛は不要です」


「じゃあリーナたんの護衛として——」


「結構です」


 マルコが荷馬車に荷物を積みながら、こっそり笑っていた。


---


 バルト農園から教えてもらった山の湯宿は、ライゼンから半日ほど山道を入ったところにあった。


 道中、エルザはリーナの隣を歩いた。山道なので、多少の足場の悪いところもある。そのたびにエルザが「手を貸します」と言い、リーナが「結構です」と言い、エルザが「でも——」と言い、リーナが「自分で歩けます」と繰り返した。


 それが五回続いた。


「……エルザさん」


「はい」


「六回目はやめてください」


「分かりました」


 七回目に、エルザはそっとリーナの手を取った。


 リーナは一瞬止まった。


「……今、七回目ですね」


「はい」


「六回目はやめると言いました」


「七回目なので、別枠です」


 リーナはため息をついた。しかし、その手を振り払いはしなかった。


 前を歩く源三がそれに気づいていたかどうか。少なくとも、振り返りはしなかった。


---


 湯宿は、小さかった。


 山の斜面に建てられた、古い木造の宿だった。湯気が屋根の隙間から漏れていて、遠くからでも温泉の香りがした。出迎えた女将は小柄な老婦人で、四人を見て「バルトさんのご紹介の方ですね」とだけ言い、さっさと部屋に案内した。言葉は少ないが、手際が良かった。


 部屋は二間。男女に分かれて使う。


「リーナたんと同じ部屋ですね」エルザが言った。


「そうですね」リーナは荷物を置きながら答えた。「寝るときはちゃんと離れてください」


「護衛頭として——」


「寝るときも結構です」


---


 午後、湯へ入った。


 エルザは一人で女湯に向かった。


「リーナたんは来ないんですか」


「後で一人で入ります」


「一緒に入りましょうよ——」


「後で、一人で、入ります」


 三回繰り返されたので、エルザは一人で入った。


 広い湯を一人で使いながら、エルザは天井を見上げた。


(もったいないな)


 一人でそう思った。誰にも聞こえない声で「リーナたんと入りたかった」とつぶやいた。湯気が答えた。


---


 男湯では、源三とマルコが湯に浸かっていた。


 静かだった。


 しばらく二人とも何も言わなかった。ただ、湯の音と、山の木々の音がしていた。


 マルコがふと言った。「旦那って、前の世界でも温泉、好きでしたか」


「好きでしたよ」源三は湯に首まで浸かりながら答えた。「年を取ってから、特に」


「何歳ごろから、ですか」


「六十を過ぎたころから、体が喜ぶようになりました」源三は少し笑った。「この体はまだ若いので、そこまでの感動はないですが」


「俺は初めてなんです、温泉」マルコは湯を手ですくいながら言った。「いいもんですね」


「そうですね」


「なんか——全部、ここに置いてきていい気がする」マルコはゆっくりと湯に肩まで沈んだ。「バタバタしてたこととか、怖かったこととか」


「置いてきていいですよ」


 マルコはそれきり何も言わなかった。源三も何も言わなかった。ただ、並んで湯に浸かっていた。それで十分だった。


---


 夕食は宿の膳だった。


 山菜の煮物、川魚の塩焼き、きのこの汁。素朴だが、丁寧な仕事が見えた。マルコが一口食べて「この出汁の取り方、聞きたい」と言い出し、エルザが「料理長らしい」と笑い、リーナが「食事中です」と言いながらも箸が止まらなかった。


 源三はその賑やかさを、静かに聞いていた。


 リーナが珍しく、少し饒舌だった。湯で緩んだのか、山菜の一つ一つについて「これはどこで採れるのか」「薬効はあるか」とエルザに聞き、エルザが嬉しそうに答えた。


「リーナたんって、薬草に興味があるんですね」


「秘書として、知識は広い方がいいので」


「一緒に採りに行きますか。明日の朝」


「……少し、考えます」


 エルザの目が、きらりと輝いた。


---


 夜が深くなった。


 エルザが先に眠った。よく動く体は、よく眠る。枕に頭をつけて、三分もしないうちに静かな寝息を立て始めた。


 リーナはしばらく、暗い天井を見ていた。


 湯に入っていない。


 エルザが起きている間は、とても入れなかった。一人でゆっくり入る——そう決めていた。


 エルザの寝息を確認して、静かに立ち上がった。廊下に出た。宿は静まり返っている。湯場の方から、かすかに湯気の匂いがする。


 暖簾をくぐった。


---


 湯の中に、人がいた。


 息が、止まった。


 エルザ——とリーナは思った。やはり待ち伏せていたのか、と。


 しかし、湯気の向こうの人影は、エルザではなかった。


 白髪まじりの、穏やかな横顔。


 霧島源三だった。


 リーナは一歩も動けなかった。


 源三がゆっくりと振り向いた。リーナを見た。驚いた様子は、なかった。ただ、少しの間、静かにリーナを見た。


「……どうやら、入れ替わっていたようですね」


 源三が、穏やかに言った。


「申し訳——」声が、かすれた。「すぐに、出ます」


「そうしてください。私も上がります」


 源三が立ち上がろうとした。


 リーナは、扉に向かいかけて——足が、止まった。


 なぜ止まったのか、自分でもよく分からなかった。百二十年分の理性が「出なさい」と言っている。しかし。


 振り返った。


 源三がこちらを見ていた。


「……あの」


「はい」


 リーナは少しの間、黙っていた。胸の中で、何かが、ためらいながら動いていた。


「……一緒に、入っていいですか」


 自分でも、驚いた。


 声に出してしまってから、リーナは耳まで一瞬で熱くなった。百二十年生きて、こんなことを言ったのは、初めてだった。


 源三は少しの間、黙っていた。


(困った)


 それが正直な気持ちだった。困った。しかし——廊下からの足音は、もうない。マルコもエルザも、寝ている。誰も来ない。


「……分かりました」


 源三は静かに言った。


---


 リーナが、そっと湯に入った。


 源三から離れた場所に、静かに腰を下ろした。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 高い位置にある小窓から、月明かりが差し込んでいた。湯気が、その光の中をゆっくりと漂っていた。湯の音だけが、静かに続いていた。


「……」


「……」


 沈黙が、少し長くなった。


「あの、霧島様」


「はい」


「今日、楽しかったですか」


 源三は少し、間を置いた。「楽しかったですよ。リーナさんは」


「……楽しかった、と思います」リーナは湯を手でそっとかき混ぜた。「こういう時間が、あるとは思っていませんでした」


「そうですか」


「百二十年生きてきて——誰かと、こうして」リーナは少し言葉を探した。「穏やかな場所にいるのが、初めてな気がします」


「そうですか」源三は月明かりの方を見た。「私は前の世界でも旅は好きで、よく出かけていました。ただ——いつも一人でしたから。こうして誰かと湯に入るのは、久しぶりです」


 リーナはその横顔を、見ていた。


 湯気の向こう。月の光の中にある、穏やかな顔。


(この人は——)


 百二十年、リーナは人との間に線を引いてきた。深く関わるほど、失う痛みが大きくなる。長命のエルフにとって、それは自然な自衛だった。


 この商会に来たときも、そうするつもりだった。


(いつの間に、線が消えていたのだろう)


「リーナさん」


「はい」


「百二十年」源三は静かに言った。「長かったでしょう」


 胸の中で、何かが、静かに揺れた。


「……長かった、と思います。時々」


「これからは、少し違うといいですね」


「違う、とは」


「一人ではないので」


 源三は、それだけ言った。それ以上は言わなかった。ただ、月明かりの方を見ていた。


 リーナは何も言えなかった。


 耳が、じわじわと熱くなっていった。湯のせいではなかった。月明かりのせいでも、なかった。


 しばらくして、リーナが立ち上がった。


「……上がります。お先に失礼します」


「はい、おやすみなさい」


 源三は答えた。


 しかし、立ち上がらなかった。


 リーナが出ていった。扉が静かに閉まった。


 源三は一人、湯の中に残された。


(……困った)


 もう一度、そう思った。


 前の世界では、八十三年かけてこういう状況に慣れてきた体が——今は四十代だった。八十三歳の理性と、四十代の体は、時々、まったく足並みが揃わない。


(この体には、まだ慣れていない)


 源三はしばらく、湯の中で動かなかった。


 月明かりだけが、静かに差し込んでいた。


---


 翌朝。


 エルザは夜明けとともに山に入り、珍しい薬草を三種見つけて、嬉しそうに帳面に記録しながら宿に戻ってきた。


 玄関を入ると、リーナがすでに縁側に座っていた。お茶を一人で飲みながら、山の方を見ていた。


 エルザは籠を下ろして、リーナのそばに来た。


「おはようございます、リーナたん。早いですね」


「……おはようございます」


「眠れましたか」


「眠れました」


 エルザはリーナの横顔を、しばらく見ていた。


「……リーナたん、昨夜」


「何ですか」


「夜中に、気配が動きませんでしたか。私が目を覚ましたとき、いなかった気がして」


 リーナのお茶を持つ手が、わずかに止まった。


「……眠れなくて、少し廊下を歩きました。それだけです」


「廊下、だけですか」


「廊下、だけです」


「そうですか」エルザはまだ見ていた。「なんか——今朝のリーナたん、いつもと少し違う気がして」


「気のせいです」


「どこが違うかというと——なんか、柔らかいというか。顔が」


「気のせいと言っています」


「霧島さんも今朝、縁側にいて——」


「エルザさん」リーナはお茶を置いて、エルザを正面から見た。目が、いつもより少しだけ鋭かった。「朝から、何を言おうとしているのですか」


「別に、何も」


「では薬草を部屋に片付けてきてください」


「はい」エルザは立ち上がった。しかし、一歩だけ歩いてから振り返った。「リーナたん、今朝、耳が赤いですよ」


 リーナは答えなかった。


 ただ、お茶のカップをそっと、両手で包み直した。


---


 昼前に宿を出て、来た道を戻った。


 帰り道、エルザはまたリーナの隣を歩いた。今度は何も言わなかった。ただ、並んで歩いた。


 しばらくして、リーナが言った。


「……エルザさん」


「はい」


「朝の薬草採り、今度——少し、連れて行ってもらえますか」


 エルザが止まった。


「……本当ですか」


「一度くらいは。どんなものか見てみたいので」


「行きましょう、絶対! 明日でも! 明後日でも!」


「そんなに急かなくていいです」


「でも嬉しくて——リーナたん、嬉しいです!」


「声が大きいです」


 マルコが後ろで笑った。源三がその様子を見ながら、静かに歩いた。


 山道に、四人分の声が重なった。


---


**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 夏の入り口 山の湯気が空に白く溶けた二日間】**


**臨時休業:一泊二日**

**湯宿:バルト農園紹介。小さく、良い宿**

**薬草:山で三種、新規確認**

**その他:特記なし**


 特記なし、と書いた。


 源三はペンを置いて、窓の外を少しの間、眺めた。


 特記なし、でいい。


 あの月明かりのことは——帳簿には要らない。


 それと。


(この体には、本当に、まだ慣れていない)


 もう一度そう思って、源三は静かに帳簿を閉じた。


---


ついに最終回となります!ここまで続けて読んでくださり、本当に、本当にありがとうございました!


この作品を皆様に見つけてもらえて、最後まで描き切ることができて幸せです。またどこかでお会いしましょう!

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