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第12話「嵐が、去った」


---


 夜襲から五日が経った。


 桐嶋商会は、いつも通り開いていた。


 マルコが台所で仕込みをしている。リーナが帳場で帳簿を確認している。源三が奥でお茶を飲んでいる。


 エルザは、少し前に戻ってきたところだった。


 日の出とともに近郊の野山へ薬草を採りに出て、籠いっぱいに摘んで帰ってくる——それが、いつの間にか朝の習慣になっていた。商会の棚に薬草を並べ、手を洗って、入り口の脇に立つ。それから一日が始まる。


 何も変わっていない。


 ただ——商会の空気が、少しだけ、違った。嵐の前の張り詰めた感じが、ない。窓から差し込む初夏の光が、前より柔らかく見えた。


 エルザが入り口から振り返った。


「今日も、変な気配はありません」


「そうですか」源三が答えた。


「昨日も、その前も」エルザは少し首を傾けた。「静かですね」


「静かな方が、良いのですよ」


 エルザは少しの間、外を見た。それから「そうですね」と言って、また前を向いた。


---


 昼前、書状が届いた。


 王都商務省の封蝋。リーナが受け取り、確認してから、源三に渡した。


「ライノルト様からです」


 源三は封を開いた。読んだ。それから、リーナに渡した。


 リーナが読み上げた。


「——クロード商会に対する業務停止命令、および不正取引に関する正式調査の開始。依頼人グレイン・ハルトマンは商会代表の職を解かれ、現在ライゼンを離れている——」


 台所のマルコが、そっと顔を出した。


「……グレインさんって、もういないんですか」


「そのようですね」源三が静かに言った。


「逃げたってことですか」


「立場がなくなって、自分で去った——というところでしょう。同じことです」


 マルコはしばらく、その言葉を聞いていた。


「……旦那、怒ってないんですか」


「怒っていません」


「でも、夜中に人を送り込んで——」


「それも、もう終わったことです」源三はカップを置いた。「終わったことを引っ張っても、仕事は前に進みません」


 マルコは少しの間、黙っていた。それから「そうですね」と言って、台所に戻った。


 エルザが、入り口から言った。「……旦那はすごいですね」


「そうですか」


「私だったら、もう少し怒ります」


「それで構いませんよ」源三は穏やかに言った。「あなたはあなたの気持ちのままで」


 エルザは少しだけ、目を細めた。それから前を向いた。


---


 昼すぎ、ドガンが来た。


 いつも通りの仏頂面で、いつも通りの重い足音で入ってきた。椅子に座り、腕を組み、黙った。源三がお茶を出した。


「書状は来たか」


「来ました」


「読んだか」


「読みました」


 ドガンは一口、茶を飲んだ。


「グレインは昨夜、ライゼンを出た。街道の関所を通ったのが確認されている。もう戻ってこないだろう」


「そうですか」


「クロード商会の方は——本社から後任が来る。タルクという男だ。俺は面識がないが、話を聞く限り、グレインとは違うやり方をする人間らしい」


「どういう意味の違いですか」


「真っ当にやる、ということだ」ドガンは眉を動かした。「圧力をかけたり、夜中に人を送ったりはしない。正面から商売で勝負してくる」


 源三は少し考えた。「それは——良かった」


 ドガンが目を上げた。


「良かった、ですか」


「競合相手は必要です。正面からやり合える相手がいてくれる方が、こちらも育つ」源三は穏やかに続けた。「グレインさんのようなやり方より、ずっと良い」


 ドガンはしばらく、源三を見ていた。


「……変わった考え方をするな、お前は」


「そうですか」


「普通は、競合相手がいない方がいいと思うものだ」


「いない方が楽ですが——楽すぎると、止まります」源三は窓の外を見た。「止まるのが、一番良くないので」


 ドガンはまた茶を一口飲んだ。それから、低く言った。


「……エルザは、どうだ」


 源三は少し目を細めた。「立派にやっています」


「そうか」


「ドガンさんの娘さんです」


 ドガンは何も言わなかった。ただ、カップを両手で包んで、少しの間、黙っていた。


 それから立ち上がった。「俺は帰る」


「ありがとうございました。色々と」


「別に」ドガンは扉に向かった。エルザのそばを通るとき、一度だけ横目で見た。エルザも横目で見た。


 何も言わなかった。


 それで、十分だった。


---


 夜、四人で夕食を囲んだ。


 マルコが、少しだけ良い食材を使った料理を作った。「ちょっとした打ち上げです」と本人は言った。「ちょっとだけ」。


 卓に並んだのは、きちんと下処理された肉の煮込み、バルト農園から届いたばかりの新鮮な野菜を使った温かいサラダ、エルザの薬草で香りをつけたスープ。


 見た目は地味だが、すべてが丁寧だった。


 しばらく、黙って食べた。


 マルコがふと言った。「……なんか、長かったですね」


「そうですね」源三が答えた。


「開業してから、ずっとバタバタしてた気がして」


「落ち着きましたか」


「落ち着きました」マルコは少し笑った。「なんか、変な感じですけど」


 エルザが言った。「私はまだ気を抜きません」


「そうしてください」源三が頷いた。


「でも——」エルザはリーナを見た。「リーナたんの顔が、少し明るいですね」


「そんなことはありません」


「ありますよ。さっきから、ご飯がおいしそうな顔をしてる」


「食事中なので当然です」


「いつもより、ですよ」


「……少し、気持ちが楽になっただけです」リーナは前を向いたまま言った。「それだけです」


「リーナたんも、ずっと緊張してたんですね」


「当然です。帳場の責任者ですから」


「でも今日は、少し楽そうで——良かったです」


 リーナは何も言わなかった。ただ、スープのカップを両手で包んで、ゆっくりと飲んだ。耳が、ほんの少し、上を向いていた。


 マルコがそれを見て、静かに笑った。源三もカップを口元に持っていった。


 四人分の声と、食器の音が、夜の商会に重なった。


---


 食事が終わり、マルコが台所を片付け、エルザが夜の見回りに出た。リーナが二階に上がった。


 源三は一人、帳場に残った。


 蝋燭を一本、点けた。帳簿を開いた。しかしすぐには書かずに、ペンを持ったまま、少しの間、室内を見渡した。


 入り口脇の棚に、エルザの薬草が並んでいる。帳場の椅子に、リーナの手帳が置いてある。台所から、マルコが食器を片付ける音がする。


(廃屋でした、ここは)


 源三は静かにそう思った。


 最初に来た日のことを思い出した。窓が割れていた。扉が歪んでいた。床に埃が積もっていた。リーナが一人、廃墟の隅に座っていた。


 あの日から、どれくらい経ったのだろう。


 帳簿をめくった。最初のページは、売上がほとんどなかった。次のページ、その次のページ——少しずつ、数字が変わっていく。


(良かった)


 そう思った。ただそれだけだった。


 源三はペンを動かし始めた。今日の記録を書いた。書き終えてから、窓の外を一度だけ見た。


 ライゼンの夜が広がっていた。どこかで、エルザが見回りをしている。二階で、リーナが眠っている。台所で、マルコが最後の片付けをしている。


 桐嶋商会の明かりが、夜の通りに落ちていた。


 それでいい、と源三は思った。


---


 翌朝。


 マルコが仕込みをしながら、ふと言った。


「旦那、一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「皆、少し疲れてますよね。俺も含めて」マルコは包丁を動かしながら続けた。「どこか、出かけませんか。バルトじいさんに聞いたんですが、農園から半日ほどのところに——温泉があるらしくて」


 源三は少し首を傾けた。「温泉、ですか」


「ライゼンの東の山の方に、小さな湯宿があるって。バルトじいさんがたまに使うって言ってました」


 エルザが入り口から振り返った。「温泉!」


「エルザさんも行きたいですか」


「行きたいです。リーナたんと一緒に入れますか」


「……それは」リーナが帳場から低く言った。「別々で入ります」


「でも湯船は一つかもしれないし——」


「別々です」


「リーナたん——」


「別々と言っています」


 源三は少し、口元を動かした。


「では——少し、休みにしましょうか」


---


**【本日の進捗 桐嶋商会 王暦四百二十三年 初夏の盛り 風が南から吹き、街に夏の匂いがした日】**


**クロード商会・グレイン:役職解任、ライゼン離脱。正式調査開始**

**クロード商会・後任:タルク氏、赴任予定。正面からの商売を行う方針**

**桐嶋商会:第一の嵐、通過**

**従業員四名:健在**


 嵐が、去った。


 桐嶋商会の明かりは——今日も消えなかった。


---


*次回「桐嶋商会、湯に入る」*


今回で一区切りになります。

いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!とても励みになっています。


次回で一応の完結となります!



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