第9話:天使の休息と死神の仕事
「ねえ、悠真くん。あのアトラクション、待ち時間がちょうど5分に減ったみたい。行こう?」
快晴のルナ・パーク。零奈に手を引かれながら、悠真は不思議なほどの心地良さを感じていた。
普通、休日の遊園地といえば人混みに酔い、行列に苛立ち、熱気にうだるものだ。しかし、零奈の隣にいる今日だけは違った。
二人の周りだけ、常に涼やかな風が吹き、人混みは自然と割れていく。
(……何だろう、すごく快適だ)
悠真が気づくはずもない。零奈の網膜HUDが、半径50メートル以内の全通行人の『不快指数』と『移動経路』を常に演算していることを。
騒がしい子供がいれば微弱なフェロモンで注意を逸らし、ぶつかりそうな不躾な男がいれば、すれ違いざまに目にも留まらぬ速さで足払いをかけ、悠真に近づくことさえ許さない。
「……ふふ。今の角度、悠真くんの髪が光に透けてとても綺麗。湿度も55%に保たれているから、最高のコンディションだね」
彼女は悠真の腕を抱きしめ、うっとりと呟いた。彼女にとってこの遊園地は、悠真を最も美しく、最も幸せな状態で『保存』するための巨大な実験室に過ぎない。
絶叫マシンの列に並んでいる時だった。ふと悠真は喉の渇きを覚え、自動販売機へ向かおうと足を止めた。
「ごめん、零奈さん。ちょっと飲み物買って――」
「――15秒。……15秒だけ、待ってくれる?」
零奈が彼の言葉を遮り、じっとその目を見つめた。
「え? 15秒?」
「うん。そこで目を閉じて、私のことを考えていて。……いい?」
唐突な言葉に戸惑いながらも、悠真は素直に目を閉じた。一、二、三……。
その瞬間、零奈の姿が風景に溶けるように消えた。光学迷彩――ナノマシンによる光の屈折操作。
彼女は爆発的な脚力でフェンスを飛び越え、バックヤードの資材置き場へと着地する。
そこでは、地面の亀裂から這い出そうとするインヴェイダーの尖兵が、醜悪な咆哮を上げようとしていた。
『ターゲット、確認。無音殺モード、移行』
腕から突き出した鎌が、高周波の振動と共に怪人の喉を裂く。
返り血の一滴さえも空中でナノマシンがキャッチし、地面に落とさない。怪人の巨体が絶命の痙攣を起こす前に、彼女はそれをコンテナの影へと蹴り飛ばした。
十三秒、十四秒、十五秒。
「……はい、いいよ」
悠真が目を開けると、そこには先ほどと全く同じ場所に、全く同じ聖女の微笑みを湛えた零奈が立っていた。
「……何してたの?」
「ふふ、愛の充電。さあ、行こっか」
彼女の髪がわずかに風に揺れている。その足元に、今しがた屠られた怪人の残骸があることなど、悠真は夢にも思わなかった。
太陽が天頂を過ぎた頃。アトラクションの出口付近で、零奈が足を止めた。
「悠真くん、ちょっとお腹空いちゃったね。……あそこのワゴン、見て。ルナ・パーク名物のクレームブリュレ・ポップコーンだよ」
「あ、本当だ。いい匂い」
「すごく人気で、いつも行列なんだけど……今はタイミングがいいみたい。悠真くん、私の分も一緒に買ってきてくれない? 私はあそこのベンチで、場所取りをして待っているから」
零奈は彼の背中を優しく押し、小銭入れを握らせた。
「分かった。すぐ戻るよ」
「うん。……ゆっくりで、いいからね? ちゃんと順番通りに列に並んで、美味しいのを買ってきてね」
悠真は頷き、ポップコーンの列へと向かった。角を曲がり、悠真の姿が彼女の視界から消える。
その瞬間。零奈の顔から、一切の感情が剥げ落ちた。
「……シロアリどもが。地底で大人しくしていればいいものを」
彼女の網膜には、遊園地の地下深くに密集する数百の熱源反応が映し出されていた。インヴェイダーの孵化が始まったのだ。
零奈は周囲に人がいないことを確認すると、ベンチの影で腕をだらりと下げた。
――カシンッ。
制服の袖を突き破り、どす黒い輝きを放つ『鎌』がその全貌を現す。彼女の瞳が捕食者のエメラルド色に染まり、背中の羽が微かに震えた。
「悠真くんがポップコーンを受け取るまで……残り、180秒」
死神は音もなく、獲物が群れる地獄への入り口へと、その身を躍らせた。




