第3話:完璧に管理された『幸福』
翌朝、悠真が目を覚まして最初に違和感を覚えたのは、枕元に置いたスマートフォンの画面だった。
「……何だろう、これ。『Z-Systemによる最適化が完了しました』?」
見覚えのないOSアップデート。設定画面を開こうとしても、「管理者権限が必要です」と弾かれる。
さらに奇妙なことに、友人から届いたメッセージ通知が、表示された瞬間に既読もつかずに消えてしまった。
「おはよう、悠真くん。よく眠れた?」
返事をするより早く、部屋のドアが開いた。合鍵を使って当然のように入ってきた零奈は、エプロン姿でトレイを抱えている。
「零奈さん、これ……僕のスマホ、変なんだよね」
「ああ、それね。私が少しだけ『整理』しておいたんだ。これからは、あなたに届く全ての通知は私の端末にも転送されるの。悪質なスパムや、あなたを惑わす不健全な連絡……それから、セキュリティの脆弱性を私が24時間監視してあげる。名付けて『セキュリティ強化・悠真くん専用プラン』!」
零奈は聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべ、悠真の頬を撫でた。
「悠真くん、愛してるよ。もう、悪い情報に怯える必要なんてないんだからね?」
デジタルな世界まで彼女の網に囚われたことを知り、悠真の背中に冷たい汗が伝った。
着替えを済ませて学校へ向かう準備をしていると、零奈がいきなり背後から悠真を抱きしめた。背中越しに柔らかな感触が伝わる。
零奈は、くんくん、と悠真の制服の襟元に鼻を寄せた。
「……れ、零奈さん?」
「ふふ、いい匂い。私がお母様にあげた柔軟剤の香りが、あなたの体温と混ざり合ってる。たまらない……!」
彼女の鼻腔をくすぐる音が、獲物の血の匂いを確認する捕食者のそれのように聞こえて喉が鳴る。
零奈は悠真の肩に顎を乗せると、そのまま耳元で囁いた。
「……ところで悠真くん。昨日の放課後、校舎裏からアパートまで……あなたは私の隣で『2480歩』歩いたよね?」
「え、ええと……数えてたの?」
「もちろん。でもね、あなたのスマホのヘルスケアデータを見ると、昨日のその時間帯は合計で『2604歩』になってるんだよね。……124歩も差があるんだ」
彼女の瞳が、獲物を射抜く複眼のような冷徹さを帯びる。
「124歩かぁ。いつだろうな。私と合流する直前かなぁ。それともお家に帰った後? 誰と会って、どこへ向かおうとしたの? その124歩の間に、悠真くんの心拍数が少しだけ上がってるのも確認してるよ。……ねえ、隠し事は無しって約束したよね?」
124歩。時間にしてわずか1、2分。その些細な空白さえ、彼女の演算能力からは逃れられない。
「た、ただ自販機に寄っただけだよ……!」
悠真の必死の弁解を聞くと、零奈は一瞬で『聖女』の顔に戻った。
「なーんだ、びっくりさせないで」
彼女は悠真の胸に顔を埋める。だが、その腕の力は、悠真の薄い胸板を締め付け、肋骨を軋むませるほどに強かった。
――校門をくぐった直後、悠真は聞き覚えのある声に呼び止められた。
「悠真! ちょっと、大丈夫なの!?」
幼馴染の陽菜だ。彼女は悠真の肩を掴むと、周囲を気にしながら小声でまくしたてた。
「あんた、最近連絡つかないし、ずっとあの切崎さんと一緒にいるって噂だよ? あんたはただでさえ女の子みたいな見た目だし、普段からナヨナヨしてるんだから。嫌なことは嫌ってハッキリ言わなきゃ。それとも、なんか弱みでも握られて――」
「陽菜ちゃん、それは……」
悠真が答えようとした、その時。陽菜の背後の影から、音もなく零奈が現れた。
「あら、陽菜さん。おはようございます」
零奈の微笑みは完璧だった。だが、彼女の視界――網膜に投影されたHUDには、陽菜を捉える赤い照準が重なっていた。
『個体名:柿崎陽菜。属性:幼馴染。脅威レベル:C。悠真への接触頻度:過剰。』
『――判定:剪定対象。社会的・物理的排除リストへ移行』
零奈の手が、優雅な仕草で陽菜の肩へと置かれる。
「悠真くんを心配してくれてありがとう。でも大丈夫、彼は今、世界で一番安全な場所にいるから」
零奈の指先から、微かな高周波振動が発生していることに、陽菜も、そして悠真も気づかなかった。
陽菜が不自然に顔を青ざめさせ、「あ……う、うん。またね」と逃げるように去っていく。
悠真の隣で、零奈が満足げに彼の腕を組んだ。
「さあ行こう、悠真くん。あなたの世界に、あんな羽虫は必要ないよ」
零奈はこの時既に『幸福な未来の設計図』から、悠真の古い繋がりをまた一つ消去することを決めていたのだった。




