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第2話:世界の平和より、君の夕食

 バラバラになった怪人の肉塊が、校舎裏のコンクリートを汚している。


 生臭い鉄の匂いが鼻を突き、悠真ゆうまは自分の呼吸音さえも遠く感じていた。


「あ……、あ……」


 声が出ない。目の前に立つ『それ』が、あまりにも美しく、そして残酷だったからだ。


 漆黒の鎌を携えた零奈れいなは、ふっと悠真の方へ視線を向けた。その瞬間、彼女の全身を微細な光の粒――ナノマシンの輝きが包み込む。


 シュン、という低い駆動音。


 巨大な鎌は腕の内側へと吸い込まれ、鋭い羽は背中へと溶けていく。飛び散っていたはずの返り血さえも、ナノマシンが瞬時に分解・洗浄したのか、彼女の制服には汚れ一つ残っていない。


「怖かったよね、悠真くん。もう大丈夫だよ」


 光の収束と共に、彼女は再び『聖女』へと戻っていた。


 零奈はためらうことなく歩み寄り、呆然と立ち尽くす悠真を優しく抱きしめた。


 細い腕。柔らかな体温。だが、悠真の背中に回された彼女の手指は、獲物を決して逃さない捕食者のように力強く、確実だ。ただでさえ()()な悠真ではどう足掻あがいても抜け出せないということを一瞬で理解させられた。


「……君は、一体……」

「しーっ。今は何も考えなくていいの。悠真くん、心拍数高すぎ。……落ち着くまで、こうしていよう?」


 彼女の胸元から、微かに花の蜜のような、甘く官能的な香りが漂う。それが彼女の持つ『フェロモン』の力だとは、その時の悠真は知るよしもなかった。


 その時、零奈の耳元でピピッと電子音が鳴る。


 彼女の網膜内に、所属組織『G.A.R.D.E.N.日本支部』からの緊急通信プロンプトが表示されていた。


『こちら日本支部! プレイング・マンティス、応答しろ! 地区D-3に別のインヴェイダーが出現した! 直行して殲滅せんめつせよ!』


 少年の肩に顔をうずめたまま、零奈の瞳から温度が消えた。


 彼女は悠真に気づかれないよう、思考操作だけで通信を繋ぎ、氷点下の声を脳内で響かせる。


(……うるさいなぁ、黙ってて)

『なっ、何を言っている! 市民に被害が出る恐れが――』

(今、私は悠真くんと「良いところ」なの。邪魔しないで。……次、この周波数でノイズを入れたら、あなたたちの拠点を細かく切り刻んであげる。分かった?)


 絶対的な殺意。通信の向こうで、組織のオペレーターが息を呑む気配がした。


 零奈は一方的に通信を切断すると、再び悠真を見上げ、とろけるような笑みを浮かべた。


「さあ、帰ろう? 今日は悠真くんの好きなハンバーグにするね。……栄養、いっぱい摂らせてあげなきゃ」

「えっ。いや、うちの晩ご飯はお母さんが……」


 零奈は彼の手をつかむと鼻歌を口ずさみながら歩き出した。


 ――ふらふらとした足取りで、悠真は自分の住むアパートの前にたどり着いた。


 隣を歩く零奈は、悠真の腕に自分の腕を絡め、幸せそうにハミングしている。


「……あの、零奈さん。今日はもう、ここで。送ってくれてありがとう」

「ううん。最後まで見届けるのが、私の役目だから」


 彼女の言葉の意味を測りかねながら、悠真は玄関の扉を開ける。


 すると、奥のキッチンから上機嫌な様子の母親が顔を出した。


「あら、悠真! お帰り。零奈さんも一緒だったのね、ちょうど良かった!」

「え? お母さん、なんで零奈さんの名前を……」


 驚く悠真を余所よそに、母親は満面の笑みで衝撃的な事実を告げた。


「何言ってるの。零奈さん、今日の午後に隣の部屋に引っ越してきたのよ! しかも、何かあったらお互い助け合いましょうって、合鍵まで交換しちゃったわ。本当に素敵な子が隣に来てくれて、お母さん安心だわ」

「あ、合鍵……!?」


 絶句する悠真の隣で、零奈が控えめに、けれど深く、優雅にお辞儀をする。


「これからよろしくお願いしますね、お母様。……悠真くんのことは、私、責任を持って守りますから」


 『お母様』という呼び方に、母親はさらに上機嫌になっている。


 悠真は、自分の家という最後の聖域さえもが、彼女の張り巡らせた見えない網――いや、巨大な鎌のリーチ内に収まってしまったことを悟った。


 打ちひしがれる悠真を知ってか知らずか母親はいそいそと出かける準備を始めていた。


「……あれ、お母さん。こんな時間にどこ行くの?」

「言ってなかったっけ。お母さん、今日から夜勤だから」

「急すぎない!?」

「夜勤はお給料がいいのよ。ちょっとでも稼がなくちゃ。行ってきます。留守番よろしくね、悠真!」


 無慈悲な音を立てて玄関のドアが閉まる。

 

「いってらっしゃいませ、お母様。お家のことは任せてくださいね。……さあ、悠真くん。まずはキッチンを借りるね? あなたの体、隅々まで私の料理で満たしてあげる」


 彼女は悠真の手からカバンを奪うと、まるで自分の家であるかのような足取りで、奥へと入っていった。


 夕闇が迫るアパートの一角で、悠真は逃げ場のない幸福な地獄が、本格的に始まったことを確信した。

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