第1話:聖女の微笑み、死神の鎌
学園の昼休み。喧騒に包まれる教室の中で、そこだけが聖域のように静まり返っていた。
「はい、悠真くん。あーんして?」
佐倉悠真の目の前には、銀色に近いプラチナブロンドの髪をなびかせた美少女――切崎零奈が座っている。
彼女は『学園の聖女』と呼ばれていた。成績は常に学年トップ。誰もが見惚れる容姿。そして、誰に対しても分け隔てなく接する慈愛の心。
そんな高嶺の花が、なぜかごくごく平凡な少年の口元に箸を伸ばし、丁寧に卵焼きを差し出している。
「あ、いや……自分で食べられるから、零奈さん」
「……さん、じゃなくて、零奈、でしょ? 呼び捨てでいいって言ってるじゃん。それとも、私の味付けがお気に召さなかったのかな」
零奈が小首を傾げる。その仕草は完璧な可愛らしさだ。けれど、その瞳――吸い込まれるように深いエメラルドグリーンの双眸が、瞬き一つせずに自分をじっと見つめていることに、悠真はかすかな背徳感を覚えていた。
――背徳感、だけではない。悠真の胸の内に渦巻いていたのは情けなさだった。
原因は、自身の容姿にある。悠真は鏡を見るたびに自分の頼りなさに嫌気が差していた。
白磁のように透き通った肌に、栗色の髪。女子よりも長いと言われる睫毛。少し大きめの制服に埋もれるような細い肩は、どれだけ食べても、どれだけ運動しても、男子らしい厚みを帯びることはなかった。
その華奢な見た目のせいでクラスの男子からは見下される毎日だ。
そんな自分が女子に甲斐甲斐しくお世話などされていては余計にみっともなく見えてしまうではないか。
悠真が考え込んでいると、瞳を潤ませた零奈が顔を覗き込んできた。
「悠真くん、どうしたの。もしかして玉子焼きの気分じゃなかった? だったら、すぐに別のを作り直して――」
「そ、そんなことないよ。……あ、あーん」
根負けして口を開けると、絶妙な甘さの卵焼きが入り込む。
周囲の男子からの刺さるような嫉妬と侮蔑の視線。だが、不思議と誰も文句を言いに来ない。それどころか、二人がこうしている間、教室の他の連中は遠巻きに見守っている……というより、怯えているような気さえする。
「美味しい? 今この瞬間にも悠真くんの細胞一つ一つが、私の作った栄養で満たされていってるんだね……。ふふ、すごく幸せ」
零奈は満足そうに微笑む。その笑顔はどこまでも清らかで、けれど悠真の喉元を優しく締め上げるような、甘い圧迫感があった。
午後の授業が終わり、悠真はふと奇妙な感覚に襲われた。
(……そういえば、最近、零奈さん以外の人と話したっけ?)
手帳を見返しても、スマホの履歴を見ても、ここ一週間のやり取りは零奈とのものばかりだ。
男子とは挨拶程度。女子に至っては、目が合うことすらなくなった。
そんな時、クラスメイトの伊藤という女子が歩いてくるのが見えた。
「あの、佐倉くん。明日の日直の件なんだけど――」
「あ、うん。どうしたの、伊藤さ――」
悠真が答えようとした、その時だった。
伊藤の視線が、悠真の背後……おそらく入り口付近に固定された。
彼女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「ひっ……! ご、ごめんなさい! 用事思い出した!」
伊藤は震える声で叫ぶと、脱兎のごとく教室から逃げ出していった。
振り返ると、そこにはいつもの聖女の笑みを浮かべた零奈が立っていた。
「どうしたの、悠真くん? 嫌な虫でもいたのかな。……大丈夫、もし何かあっても私が全部お掃除してあげるよ」
彼女の手には、悠真のために淹れたというハーブティーのボトルが握られていた。
――放課後。忘れ物を取りに一人で校舎裏を歩いていた悠真は、この世のものとは思えない異形と遭遇した。
「ギ、ギギッ……人間ダ……人間……」
それは、アスファルトを割って現れた『怪人』だった。
肥大化した筋肉、粘液を垂らす口。都市伝説だと思っていた怪物が、目の前で悠真の命を狙っている。
「……っ!」
足がすくむ。逃げられない。怪人の鋭い爪が悠真の喉笛を引き裂こうと振り下ろされた。
その時。
――ドォォォォォォン!!
緑色の閃光が視界を焼き、鼓膜を劈くような金属音が響いた。
次の瞬間、悠真の目の前にいた怪人の体が、縦に、横に、斜めに――まるで精密機械で裁断されたかのように、一瞬でバラバラの肉塊と化した。
「……え?」
血飛沫が舞う中、そこに立っていたのは『聖女』などではなかった。
背中には、薄く、鋭い四枚の透明な羽。
両腕には、漆黒の輝きを放つ、巨大で無慈悲な『カマキリの鎌』。
全身を緑と黒の強化外装に包んだ、美しくも禍々しいヒーローの姿。
その少女は、足元に転がった怪人の首を無造作に踏み潰すと、ゆっくりと彼の方を振り向いた。
「怪我はない、悠真くん?」
バイザーの隙間から覗くエメラルドグリーンの瞳は、戦いの中でもなお、悠真への狂おしいほどの愛に満ちていた。
彼女は鎌についた血を、優雅な動作で振り払う。
「びっくりさせちゃったね。でも、安心して。もしも世界があなたの敵になっても、私が全部切り刻んであげるから」
血の雨の中で、彼女は美しい聖女の微笑みを浮かべた。
「……だって、あなたは私の『特別な一匹』なんだから」
異形の怪人は悠真の細い手首をそっと握り、吸い付くような手つきでそれを愛でる。
少年の平和な日常が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。




