第29話:陥落
視界は、柔らかな桃色の霞に覆われていた。
悠真は今、清潔な香りのする部屋で、零奈の膝の上に頭を預けている。彼女の指が悠真の髪を梳くたび、頭皮から痺れるような甘美な電流が走り、思考の断片をひ一つ、また一つと溶かしていく。
「さあ、悠真くん。口を開けて」
悠真は最後の抵抗でもするように必死に唇を結び、首を振った。
「もう。しょうがないなぁ」
零奈が、小さな器に入った淡い琥珀色のペーストをスプーンで掬い、自らの唇に含んだ。そして、抗う力のない悠真の顔を両手で優しく包み込み、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「ん……っ」
重なり合ったのは、驚くほど熱い、彼女の唇だった。口移しだ。
彼女の舌と共に流れ込んできたのは、芳醇な蜜のような甘みと、脳の報酬系を直接蹂躙する高濃度医療ナノマシンの『波』だ。食道を通り、血流に乗った異物たちが、悠真のシナプスを強制的に書き換えていく。
(……ああ……熱い……でも、これ……っ)
ふと、重なり合う唇の隙間から、彼女の震えが伝わってきた。ナノマシンによる多幸感に浸りながらも、悠真は見てしまった。
白磁のように滑らかだった零奈の頬が、今、見たこともないような鮮やかな緋色に染まっているのを。
「は……っ、あ……」
唇を離した瞬間、零奈は口元を片手で覆い、熱っぽい吐息を漏らした。
エメラルド色の瞳は潤み、その奥には狂気と、それ以上に初めてを経験した少女特有の初々しい羞恥が混ざり合っている。
「……ふふ、あはっ……。悠真くんと、ちゅーしちゃった。今の……私たちの、ファーストキスだね。好きな人とちゅーするのって、こんなに……こんなに胸が熱くなるんだ……」
彼女は高揚感に身体を震わせ、恍惚とした表情で悠真を見つめた。
やっていることは冷徹な精神の汚染だ。それだというのに、彼女の反応はあまりに純粋で、それがかえって悠真の恐怖を『運命』へと誤認させる。
数時間前まで抱いていた、あの猛烈な恐怖。自分の人生が全て観察日記にデータとして記され、捕食されるその瞬間まで待ち構えられていたという絶望。逃げ出そうとして、世界そのものに追い詰められた屈辱。
それらが今、彼女の熱い吐息と共に急速に遠ざかっていく。
大学、将来、自由……。そんな不確かで孤独な言葉は、今の自分にはもう必要ない。
外の世界はあれほど恐ろしくて悠真を拒絶するのに、この腕の中だけは、こんなにも彼を肯定し、熱を分け与えてくれる。
「れい……な、さん……」
悠真は、彼女の制服の裾を、細い指で必死に掴んだ。
「零奈さんは……僕の大学進学、なんとかしてくれるの……?」
「するよ」
零奈は優しく微笑む。
「僕の……就職も……?」
「なんとかしてあげるよ。私に任せてくれればね」
零奈は優しく微笑む。
「ご飯を作ったり……掃除とか洗濯も……?」
「もちろん。毎日してあげる」
零奈は優しく微笑む。
「抱きしめてって言ったら……いつでもしてくれる……?」
「するよ」
零奈は優しく微笑む。
「き、キスも……?」
「してあげるよ」
零奈は優しく微笑み、悠真の頬に口づけを落とす。
「え……えっちなことも……?」
「……いいよ。私、ロマンチックなタイプだから、本当は二人が添い遂げて結婚式を終えた夜に初めてをするのが一番好みなんだけど。でも、悠真くんがしたいって言うならいいよ」
零奈の声が恥ずかしそうに掠れる。
「……してあげる。セックス。悠真くんのしたい時に。いつでも」
見上げた彼女の顔は、勝利した捕食者であると同時に、愛する人に触れて震えるただの『女の子』に見えた。そのギャップが、悠真の最後の理性を焼き切った。
悠真は、彼女の名前を初めて呼び捨てにすることを決めた。
「……分かったよ、零奈。……君がいれば、もう何も要らない。僕を、どこにも行かせないで。僕の全てを……君に預けるから……っ」
その言葉を口にした瞬間、悠真の中の『自分自身』が、幸福な音を立てて崩壊した。
「ああ……っ!!」
零奈は弾かれたように悠真を抱きしめた。その腕の力は、骨が軋むほどに強く、そして震えていた。彼女は悠真の瞼に、何度も、何度も、狂おしいほどのキスを落とす。
「ええ、約束するね、悠真くん……っ! 死が二人を分かつまで。いいえ、あなたが死んで、その肉体も魂も、全て私の一部になっても……ずっと、ずっと、一生一緒だよ。あは、あははは……っ!」
彼女の瞳から流れた一筋の涙が、悠真の頬を濡らす。それが狂喜ゆえか、それとも恋が成就した安堵ゆえか、彼にはもう判断できなかった。
窓の外では、ベランダに張り付いたミエルが「おめでとうございます! おめでとうございます、お二人とも!」と、涙を流しながら狂喜乱舞し、拍手を送っている。
夜空には、対怪人組織『G.A.R.D.E.N.』日本支部のヘリコプター群が、二人の門出を祝福するかのように、サーチライトで巨大な円を描きながら旋回を始めた。
悠真を閉じ込める檻は、今、世界そのものになった。その檻の名前は『愛』。
悠真は彼女の腕の中で、赤ん坊のように安らかな眠りについた。




