エピローグ:僕のためだけの箱庭
僕が零奈の愛を受け入れてから数週間が経った。
学園の風景は、表向きは何一つ変わっていないように見えて、その内側は完全に別の『王国』へと作り変えられていた。
昼休みの教室。かつて僕をひ弱だとか男らしくないだとか見下し、格下のように扱っていた男子たちは、今や僕と目が合うことすら恐れて俯いている。
僕が少し動くだけで、周囲の生徒たちの肩がビクリと跳ねる。彼らの網膜の奥で、零奈のナノマシンが『悠真に無礼な仕打ちをする者は排除する』という恐怖のコードを刻み込んでいるからだ。
「佐倉様。……あ、あの、もしよろしければ、今日も私を『お椅子』にしていただけないでしょうか?」
足元から、這いつくばるような声がした。かつての女王蜂、蜂野ミエルだ。今の彼女は、僕たち二人の忠実な『奴隷』へと調教されていた。
僕は冷ややかな視線を彼女の頭頂部に落とし、椅子の背もたれに体を預けたまま、彼女の背中に容赦なく片足を乗せた。ローファーの底で、彼女の華奢な背中を踏みつける。
「……静かにして。今は零奈とお喋りする時間なんだから」
「はいっ……! ありがとうございます……っ!」
僕に踏まれたミエルは、まるで至高の愛を受け取ったかのように、顔を紅潮させて身震いした。
自分がかつて世界から受けていた理不尽な軽蔑。それを、零奈のお下がりの権力を使って、この狂った犬にぶつける。その歪んだ全能感が、今の僕の、壊れた心のバランスを保つ唯一の劇薬だった。
僕の正面。机に腰掛けた零奈が、愛おしそうに僕の顔を覗き込んだ。行儀は悪いが、この方が僕との距離をより近づけられるからと言って彼女はよく僕の机に腰掛けている。僕もそれに文句を言うことはない。
「ふふ、悠真くん。今日のあなた、いつもより少しSっぽいんじゃない? ……でも、そんな悠真くんも男らしくて素敵だよ」
プラチナブロンドの髪が僕の頬をなぞる。僕はもう、彼女の視線から逃げるように目を逸らしたりはしない。むしろ、自分から手を伸ばし、彼女の細い腰を引き寄せた。
「ねえ、零奈。……キスして」
「ええ、喜んで。私の可愛い、御主人様。悠真くん」
周囲には数十人のクラスメイトがいる。しかし、そんなことはどうでもよかった。零奈が僕の唇を塞ぐ。深く、貪るようなディープキスだ。
教室中の生徒が一斉に視線を逸らし、耳を塞ぎ、気配を消す。人目はあるのに、誰も僕たちを見ようとはしない。今や世界そのものが、僕たち二人のためだけの隔離空間だった。
彼女の舌から注ぎ込まれるナノマシンの熱が、僕の脳を直接蕩けさせていく。
僕は彼女の制服の中に手を滑らせ、その背中に触れた。ブラジャーの紐越しに小さな突起をなぞる。彼女が改造人間に『変身』をすると、背中のその場所から硬質な翅が生えるのだ。かつて恐怖の象徴だったそこが、僕を最も安全に守ってくれる聖域だと知っている。
愛おしそうに撫でると零奈はくすぐったいような声を漏らした。扇情的な甘い吐息。このまま彼女を机の上で押し倒してしまいたい衝動に駆られる。
――その時だった。
遥か遠くの市街地から、空気を震わせる不気味な咆哮が響き渡った。
窓の外、数キロ先のアスファルトを突き破り、新たな怪人が出現したのだ。教室中に警報が鳴り響き、生徒たちがパニックになりかける。
だが、零奈は僕と唇を重ねたまま、ピクリとも動じなかった。
「……チッ。何、あのお邪魔虫。せっかく悠真くんが私を求めてくれているのに」
彼女は唇を離すと、酷く不機嫌そうに舌打ちをした。両腕から漆黒のカマキリの鎌を出現させ、刃をギラリと輝かせる。
「悠真くん。ここで一、二分だけ待っていてね。すぐに終わらせてくるから」
「うん。早く戻ってきてね、零奈」
「ええ、もちろんだよ」
零奈は僕の額にチュッと可愛らしくキスをすると、窓ガラスを蹴り破って外へと飛び出した。
衝撃波と共に、時速数百キロの速度で怪人の元へと文字通り『飛んでいく』彼女の背中を、僕は退屈そうに眺める。
しかし、彼女の姿が視界から消えた途端、僕の脳内には致命的な狂気が襲いかかった。
零奈の体温が、香りが、僕の肌から離れた瞬間。僕の細胞に組み込まれたナノマシンが、猛烈な『零奈不足』の警告を発し始めていた。
心拍数が跳ね上がり、視界が激しく明滅する。ほんの数十秒の不在。それだけの時間が、まるで永遠の砂漠に放り出されたかのような絶望となって、僕の細い身体を苛む。
「あ、つ……頭が、割れそうだ……っ」
寂しい。苦しい。零奈がいないと、僕は息もできない。
狂いそうな精神の拠り所を求めて、僕は足元で平伏していたミエルの髪を、力任せに掴んで引きずり上げた。
「あうっ……!? 佐倉、様……?」
「黙ってろよ……っ!」
僕は暴力的にミエルの胸ぐらに掴みかかった。彼女を乱暴に抱きしめ、その怯える身体に自分の身体を押し付ける。そして、零奈の残した寂しさを埋めるためだけに、ミエルの唇に自分の唇を強引に叩きつけた。
「んん――っ!? ん、んぅ……っ!」
ミエルの瞳が、驚愕と、それ以上の脳を焼くような悦びでカッと見開かれる。
僕はこの女を愛してなどいない。ただの肉の塊、零奈が戻るまでの、精神安定剤の代わりに過ぎない。乱暴に、貪るようにミエルから偽りの温もりを奪い取っていた。
その時――。
窓の外で、ビルを破壊しようとしていた巨大な怪人が、突如上空から舞い降りた零奈の鎌によって、悲鳴を上げる暇もなく縦二つに両断されるのが見えた。
文字通りの、片手間。一国の軍隊を動員するレベルの怪人が、彼女にとってはデートの邪魔をした羽虫以下の価値しかなかったのだ。
数十秒後。
ブレードについた緑色の怪人の返り血を、自身のナノマシンで蒸発させながら、零奈が破れた窓から何事もなかったかのように教室へと戻ってきた。
「ただいま、悠真くん。……あれ。私、急いで帰ってきたのに。随分と大胆な浮気をしてくれているんだね?」
零奈は、不機嫌そうに両頬をぷくっと膨らませていた。
その姿は、お気に入りのオモチャを横取りされた子供のような、恐ろしくも愛らしい嫉妬の表情だった。
「ひっ、あ……切崎、様……っ! これは、私は決して逆らったわけでは――っ!」
ミエルが顔を青ざめさせ、ガチガチと歯を鳴らして再び床へ這いつくばる。
零奈は窓からしなやかに着地すると、僕の元へと歩み寄り、ミエルの頭をローファーのヒールで、生ゴミでも踏むかのように無造作に踏みつけた。
「静かにして。私、道具に腹を立てるほど子供じゃないから。でも……」
零奈はミエルを踏みつけたまま、僕の首に細い両腕を絡みつかせた。そのエメラルド色の瞳は、嫉妬に爛々と輝きながらも、僕への愛で蕩けるように潤っている。
「悠真くん、酷いよ。いくら人間以下の道具とはいえ私以外の女の子の唇に触れるだなんて。そんなに寂しかったなら、もっと早く怪人をミンチにしてくればよかった。……ねえ、その汚れた唇、私がもっと激しく、何度も、上書きしてあげる。……いいよね?」
「……うん。早く、して。零奈……」
僕が懇願すると、零奈は嬉しそうに目を細め、さっきよりもずっと深く、僕を窒息させるほどの熱い口づけで、僕の全てを塗り潰していった。舌と舌が絡み合う音が教室に響く。
「零奈……大好きだよ……愛してる……」
僕の唇から零れ落ちた言葉は、甘く溶けていくようだった。零奈の柔らかな舌先が僕の口腔内を優しく撫で回す。そのたびに背筋に走る快感は、電流となって脳髄まで駆け上がる。
「ふぅ……んんっ……悠真くんは私のものなんだから……他の女に触れられたところ、全部浄化してあげないと……」
僕の腰を支える零奈の指先が制服越しに肌を這い回る。彼女の華奢な肩甲骨が弓なりに反り返ると、プラチナブロンドの髪が陽光に溶けて舞った。
「ん……っ」
息継ぎの隙間で零奈が漏らす吐息には甘い香りが混じる。
足元では、ミエルが頭を踏まれながらも「お美しいです、お二人とも……っ!」と悦びに咽び泣いていた。
窓の外では、遅れて到着した対怪人組織『G.A.R.D.E.N.』日本支部のヘリ部隊が、怪人の死骸を確認して呆然としている。
組織も、世界も、クラスメイトも、怪人も。全ては僕たち二人の『愛の巣』を彩るための、ただの背景でしかない。
僕はもう、この檻から出るつもりはない。ここが僕の、世界で一番甘くて、安全な地獄なのだから。
(第1部:『捕食者の聖域』編・完)




