第22話:働き蜂の誕生
月曜日の朝。昇降口を通る悠真の足取りは、鉛のように重かった。
先週の放課後、屋上で何かが起きていた。何があったのかは分からない。ただ、あの凄まじい衝撃音と、真っ赤に染まった空、そして忽然と姿を消したミエルのことが頭から離れなかった。
(ミエルさん……無事かな。僕のせいで、あんなことに……)
不安に押し潰されそうになりながら教室のドアを開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「あ、悠真くん! おはよう!」
ミエルが、いつものように自分の席に座っていた。
汚れ一つない制服。丁寧に整えられた金髪。一見すると、以前の彼女のままだ。悠真は安堵して彼女に駆け寄ろうとした。だが、その足は教室の入り口で凍りついた。
零奈が、教室に入ってきた。
その瞬間、ミエルは弾かれたように席を立ち、零奈の足元へ滑り込むように跪いたのだ。
「――お出迎えが遅れてしまい申し訳ございません、切崎様」
ミエルはクラスメイト全員が見ている前で、当然のように床に両膝をついた。教室中がざわつく。彼女の瞳はキラキラと輝いているが、どこか焦点が合っておらず、異常な陶酔感に満ちていた。
「ミエル……さん? 何してるの……?」
悠真の困惑を無視して、ミエルは懐から真っ白なシルクのハンカチを取り出した。そして、零奈のローファーに付いた目に見えないほどの埃を、恭しく、まるで聖遺物を磨くかのような手つきで拭い始めた。
「昨夜、切崎様が歩まれた道に、不浄な砂が混じっていたようです。私の不徳の致すところ。……今すぐ、私の命をかけて清めさせていただきますね」
ミエルは靴を磨き終えると、そのままうっとりと零奈の足元に頬を寄せた。
クラス中が静まり返る。誰もがこの異常な光景に言葉を失い、ただただ震えることしかできない。
「悠真くん! 突っ立ってないで、君もこっちに来てよ!」
ミエルが顔を上げ、悠真に晴れやかで狂気的な笑顔を向けた。
「私ね、ようやく分かったの! 切崎様こそがこの世界のルール、歩く正義なんだって。今まで彼女を疑っていた自分が恥ずかしいよ。……ねえ、悠真くん。私たちがすべきことは、お二人の愛の邪魔をする『害虫』を一緒に踏み潰して、永遠の愛をサポートすることなんだよ!」
「何を……言ってるんだよ、ミエルさん。君は、彼女から僕を助けてくれるって……」
「助ける? あはは! 何言ってるの! 切崎様の隣にいること以上に、幸せな場所なんてこの世にあるわけないじゃん!」
ミエルは恍惚とした表情のまま、零奈の前に四つん這いになった。
「さあ、悠真くん、切崎様におはようの挨拶を! 切崎様、立ち話は疲れるでしょうから、私が今、『椅子』になりますね。さあ、切崎様。私の背中の上に座ってください! 踏んでいただけるだけで、私は……私は、最高の幸福を感じるんです!」
「ミエルさん……っ、やめるんだ!」
悠真の制止も虚しく、零奈は優雅な動作でミエルの背に腰を下ろした。
ミエルは重みに顔を歪めるどころか、「ああ……っ、温かい……」と、壊れたおもちゃのように震えながら歓喜の声を漏らしている。
「ふふ。悠真くん、そんなに怖がらなくていいんだよ」
ミエルを椅子代わりに座った零奈が、悠真を手招きした。彼が磁石に吸い寄せられるように近づくと、その首に細い腕を絡め、耳元に顔を寄せた。
「蜂野ミエルさんはね、ようやく『正しい居場所』を見つけただけ。これでもう、あなたを惑わすノイズはどこにもいない。彼女はこれから、私たちの恋を一番近くで応援してくれる『働き蜂』になってくれるんだよ」
零奈は悠真を抱き寄せたまま、自分の足元で悦びに浸るミエルの頭を撫でた。それは、従順な犬を褒める飼い主のような、残酷な慈愛だ。
「これでまた世界が平和になったね、悠真くん。……ねえ、そうでしょ?」
零奈のエメラルド色の瞳が、悠真の視界を支配する。
唯一の希望だったミエルは、今や悠真をこの『檻』に繋ぎ止めるための、最も強力な働き蜂へと成り下がった。
悠真は、彼女の腕の中で震えながら、もう二度とこの教室から――この世界から逃げられないことを、ミエルの狂信的な笑い声と共に悟らされた。




