第19話:超音速の空中戦
ミエルは喉元に迫った大鎌を超人的な反射神経で躱す。
「あははっ! さすがに速いね、カマキリ女!」
その背中から四枚の透明な翅が展開され、超高速の羽ばたきと共に彼女の体が宙に浮いた。ハチの因子を持つ彼女の真骨頂は、重力を無視した三次元的な高機動飛行だ。
ミエルは屋上の縁を蹴り、一気に高度を上げる。
「でも、空の上なら私の方が――」
――ドォォォォォン!!
言葉を言い切る前に、足下のコンクリートが爆ぜた。零奈は飛んだのではない。脚部の人工筋肉を瞬間的に最大出力まで励起させ、弾丸のように跳躍したのだ。
「そんな直線的な軌道で私を捉えられるわけないでしょ!」
ミエルの背部の翅が羽ばたき、その体が優雅に舞う。
だが、空中――重力が支配するはずのその空間で、零奈の体が不自然に加速した。背中の隠し翅が超振動を起こし、空気を強引に捉えて軌道を修正したのだ。
「……逃がさないと言ったはずだよ」
「嘘でしょ、その体格で空中で曲がるの!? というか、あんた、逃がさないなんて言ってないでしょ……!」
「ああ、そうだっけ。それなら、今、言うね。羽虫の分際で私から逃げられると思わないで」
「偉そうな口ばかり……! 本部の改造人間である私に、日本支部のプロトタイプのあんたが勝てるはずないでしょ!」
ミエルは空中で身を翻し、手に持った電磁パルス槍――『雷光の針』を突き出した。
「食らいなよ! そのまま焼き切れちゃえ!」
槍の先端から強烈な電磁パルスが放射され、大気が紫色の放電に包まれる。直撃すれば、改造人間の電子脳や駆動系は一瞬でショートし、ただの鉄屑と化すはずだった。
だが、零奈はその雷光を、右腕の鎌一閃で切り裂いた。
「な……パルスを、物理的に斬った……!?」
「あなたの武器も、組織の理屈も、今の私には届かない」
零奈のバイザーが、赤く、禍々しく発光する。彼女は空中でミエルを追い詰め、その冷徹な宣告を突きつけた。
「蜂野さん。……その右手からだね」
「は、はあ?」
「悠真くんの手を、その汚らわしい指先で汚した右手。……まずはそこから、肉の一片、骨の一節まで丁寧に切り刻んであげる。彼の記憶から、あなたの感触を消し去るために」
「狂ってる……! たった一度触れただけで、そこまで言うの!?」
「ええ、そう。彼は私の世界。世界の端に触れたのなら、その指を落とすのは当然の摂理でしょう?」
再び、爆鳴が響く。夕焼けに染まる学園の上空で、二条の光が激突した。
一つは、必死に逃げながら毒針を繰り出す金色の光。もう一つは、獲物の四肢を解体することだけを目的とした、深緑の死神。
超音速の衝撃波が地上の窓ガラスを次々と粉砕していく中、零奈の鎌がミエルの右腕を掠め、装甲の表面を紙のように切り裂いた。
「ひ……っ!?」
「あれ、外しちゃったかな。……大丈夫、逃がさないから。あなたが私の足元で許しを乞うまで、いつまでも続けようね」
空を支配していたはずの『女王蜂』は、今や巨大な捕食者に追い詰められた羽虫へと成り下がっていた。
ミエルは空中を旋回し、肩を荒く上下させながら叫ぶ。
「しつこすぎる……! 何なの、あんた!」
高機動飛行ユニットのエネルギー残量は、既にイエローゾーン。対する零奈は、傷一つ負わないまま、弾丸のような跳躍を繰り返して追いすがってくる。
「たかが一般人の一匹や二匹、どうだっていいでしょ!? あんな男、私たち『G.A.R.D.E.N.』が適切に管理して、効率よく利用すればいいだけの『素材』じゃない!」
その言葉が、夕闇の空に響いた瞬間だった。
ピタリ、と。零奈の動きが止まった。
彼女は空中で慣性を完全に無視するように静止し、近くの建物の壁面に音もなく着地した。
「……今、なんて言った?」
バイザーの奥の瞳が、エメラルド色から、底の知れない深い黒へと沈んでいく。
「素材? ……違う違う違う! 彼は素材なんていう、そんな空虚な言葉で定義できる存在じゃない! 彼は私の世界。私の酸素。私の心臓そのものなんだよ!!」
零奈は壁を掴む指先に力を込め、コンクリートを粉々に砕いた。
「そしてあなたは……あろうことか、彼の持ち物に触れた。あの消しゴムは、彼の指先が触れ、彼の温もりが宿り、彼の日常を形作っていた聖域の一部。私の許可なく、あなたごときがその一部を使い、擦り減らし、この世から消滅させた。その罪の重さが、まだ分からないの!?」
「はあ!? 消しゴム一つで……あんた、本当に頭がイカれて――」
「――リミッター、解除。プレデーション・シフト、起動」
零奈が静かに呟いた。
その瞬間、彼女の背中の装甲が跳ね上がり、四枚の翅が強烈な摩擦熱と共に、不気味な血の色――赤へと発光を始めた。
『警告:機体負荷が許容値を超過。人工筋肉、融解の危険あり』
「あんた、死ぬ気なの!? こんな小競り合いでプレデーション・シフトを使うなんて……! 頭がおかしいとは思ってたけど、本気で狂ってるんじゃないの!?」
視界に躍る警告表示を、そしてミエルのけたたましい声を――零奈は思考の果てに握り潰す。
「もう何も要らない。……私に必要なのは悠真くんだけ。彼のためなら私の何もかもを差し出したっていいい」
爆鳴が聞こえるより先に、零奈の姿が消えた。
いや、消えたのではない。大気が圧縮され、衝撃波が音速を超えたため、音が遅れてやってくるのだ。
「え……?」
ミエルの視界から、世界が色を失った。
次に彼女が見たのは、目の前に迫る真っ赤な光の筋だった。既に自分の左翼には亀裂が走り、飛行のバランスを崩した体は錐揉み状態で宙を舞っている。
「ひ……あ、あああああああ!?」
悲鳴さえ、零奈の移動速度には追いつけない。
音の消えた静寂の世界で、零奈の鎌が残像となってミエルの肉体を、装甲を、プライドを、無慈悲に切り刻んでいく。
「……痛い? そうだよね、痛いよね。でも、大丈夫。死なせてなんかあげないから。消しゴムの角を削るように、丁寧に、あなたの存在を削ぎ落としてあげる」
赤く燃え盛る翅を羽ばたかせ、零奈は断末魔を上げるミエルの首を掴んだまま、地上へと音速で急降下を開始した。




