第18話:一線の越境
翌日の教室。悠真を包む空気は、昨日までとは打って変わって刺すような緊張感に満ちていた。
ミエルから聞かされた『偽物の幸福』。悠真の脳を蝕んでいるというナノマシンの存在。
隣に座る零奈の横顔を見ることができない。彼女の穏やかな呼吸音さえ、今は機械の駆動音のように聞こえてしまう。
(……もし、全部本当だったら。僕は……)
混乱の中で、ペンを握る手が滑った。机の端に置いていた消しゴムが、コツン、と軽い音を立てて床に落ちる。消しゴムは斜め前の席に座るミエルの足元へと転がっていった。
「あっ、ごめん。拾うよ」
悠真が立ち上がるより早く、ミエルが身を乗り出した。彼女は床の消しゴムを拾い上げると、小さな声で謝って言う。
「悠真くん、ついでにちょっと借りもていい? 消しゴム忘れてきちゃって」
「うん。全然いいよ」
ミエルは手早く消しゴムを使うと彼の手に握らせ、明るく笑った。
「ありがと、悠真くん。助かっちゃった」
その時、彼女の温かい指先が、悠真の手の甲に一瞬だけ触れた。ただそれだけの、クラスメイトとしての何気ない接触。
――ピシッ。
静まり返った教室に、不吉な乾いた音が響いた。
「え……?」
誰かが声を上げた。悠真が見上げると、廊下側の窓ガラスに、一筋の巨大な亀裂が走っていた。
零奈の体から放たれた、制御しきれない高周波の殺気が、空気の振動となって物理的に教室を破壊し始めていた。彼女の肩が微かに、しかし激しく震えている。
「零奈、さん……?」
悠真が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、もはや聖女のそれではない。バイザー越しでもわかるほど、エメラルド色の光が狂ったように明滅し、周囲の電子機器を次々とショートさせていく。
「……蜂野さん。今、悠真くんの所有物を使ったよね?」
低く、地を這うような声。
「悠真くんの所有物は、髪の毛一本分だって、誰にも共有させない。……ましてや、そんな不潔な手で」
零奈は立ち上がると、無言で教室を後にした。その足跡には、床のタイルを粉砕するほどの重圧が残されていた。
――放課後。茜色の夕焼けに染まる屋上。
ミエルは一人、鉄柵に背を預けて待っていた。その表情には余裕があるが、腰のホルスターに手を添え、戦闘体制を解いていない。
「……出てきなよ。隠れても無駄だよ、カマキリ女」
ミエルの言葉が終わる前に、空が裂けた。
――ドォォォォォォン!!
屋上の給水塔の上から、一条の緑の影が隕石のように降り立った。コンクリートが砕け、凄まじい衝撃波がミエルの髪をなびかせる。
土煙の中から現れたのは、完全戦闘形態へと変貌を遂げた『プレイング・マンティス』だった。
人間としての輪郭を捨て、漆黒とエメラルドの装甲を纏った異形の姿。両腕の鎌は、夕陽を反射してどす黒く輝いている。
「蜂野ミエル……。あなたは大きな間違いを犯した」
零奈の声は、バイザーのスピーカーを通じて不気味な重低音へと変貌していた。
「私への牽制? 悠真くんへの告げ口? ……そんなの、どうでもいい。私があなたを絶対に許さない理由は、ただ一つ」
一歩、死神が踏み出す。
「それは私の悠真くんの消しゴムを――彼の世界の一部を、あなたが使ったこと。あなたなんかのせいで彼の世界の一部が擦り減って無くなっただなんて! 想像しただけでおぞましくて耐えられない……!!」
「……はあ? 消しゴム如きでそんなにキレてんの? 君、本当にイカれてるね」
ミエルが毒針を模した槍を構える。
だが、次の瞬間、零奈の姿が視界から消えた。
超音速の跳躍。屋上の全域を包囲するような、圧倒的な捕食者のプレッシャー。
「死ぬよりも恐ろしい目に遭わせてあげる。後悔しなさい、羽虫」
死神の鎌が、空を切り裂いてミエルの喉元へと襲いかかった。




