第15話:捕食者の子守唄(ララバイ)
真夜中。遮光カーテンの隙間から差し込む月光が、無機質な医療機器のモニター音と混ざり合い、部屋を異界のような静寂で満たしていた。
「……あつ、い……」
脳が焼けるような熱気の中で、悠真は夢を見ていた。
暗闇の中、彼を抱きしめているのは、銀色に輝く巨大なカマキリの腕だ。鋭利な鎌。硬質な外骨格。本来なら恐怖で狂いそうなその造形が、今の彼には、どんな揺りかごよりも優しく、何よりも冷たく心地良い。
「……いい子だね、悠真くん。熱くて苦しいのは、あなたの体が私を受け入れようと作り替えられている証拠なんだよ」
耳元で、零奈の声が響く。それは幻覚なのか現実なのか、もう判別がつかない。彼女の細い腕が背中に回されると、皮膚の表面を這うような冷気が彼の焦燥を鎮めていく。
零奈は悠真を抱きしめたまま、うっとりと独白を始めた。その声は、深淵から響く子守唄のように彼の意識に浸透してくる。
「ねえ、知ってる? カマキリのメスがオスを食べるのは、決して空腹だからじゃないんだ。……それは、一生、自分の中でその存在を維持し続けるための、究極の『保存』なんだよ」
彼女の指先が、悠真の首筋をなぞる。彼の華奢な体がびくりと跳ねた。
「外の世界は不潔で、残酷で、不確定要素に満ちている。でも、私のお腹の中なら……私の肉体の一部になれば、あなたは永遠に、完璧に守られる」
零奈の指が彼の薄い唇にそっと触れる。
「……ねえ、悠真くん。あなたが人間として寿命を迎えて死ぬ時、私があなたを完食べてあげるね。でも、それまでは私があなたの『世界』そのものになるから。呼吸も、鼓動も、思考も……全て私に委ねて、私の手のひらの上だけで生きていて?」
その狂気に満ちた愛の言葉が、ナノマシンで書き換えられた彼の脳には、救いの聖句として響いた。
怖い、と思うはずの心が、彼女の冷たさを求めて震える。悠真は朦朧としながらも、自分から彼女の細い首にしがみつき、その冷たい肌に顔を埋めた。
「……れいな、さん……」
「ふふ……。そう、いい子。私なしでは息もできないくらい、私を求めて……」
零奈のエメラルド色の瞳が、歓喜で潤む。彼女は悠真の首筋に、所有権を刻み込むような深く、重い口付けを落とした。それは接吻というよりは、獲物に印を付けるマーキングの儀式じみていた。
――翌朝、悠真が目を覚ますと、視界は驚くほどクリアだった。
昨日までの泥のような重さは消え、39度あった熱は嘘のように平熱まで下がっている。体は軽い。頭も冴えている。
けれど――心に、ぽっかりと巨大な穴が開いたような感覚があった。
(……変だ。なんでこんなに寒いの。零奈さんはどこにいるの?)
ナノマシンによる『ハピネス』の過剰摂取が、彼の脳に深刻な離脱症状を引き起こしていた。彼女の体温、彼女の声、彼女の支配がなければ、世界がモノクロに見えてしまうほどの強烈な飢餓感。
「おはよう、悠真くん。熱、下がったみたいだね。……お粥、持ってきたよ」
扉を開けて入ってきた零奈の姿を見た瞬間、彼は考えるより先にベッドから身を乗り出し、彼女の制服の裾をぎゅっと掴んでいた。
「……行かないで。……ずっと、ここにいて」
自分の口から出た言葉に、自分自身が驚く。かつての彼なら、零奈から逃げる機会を伺っていただろう。しかし、今の彼は、彼女が自分を置いて部屋を出て行くことこそが最大の絶望であるかのように感じていた。
「あら。ふふ……どうしたの? そんなに甘えん坊さんになっちゃって」
零奈は、全てが自分の描いた設計図通り、あるいはそれ以上の成果を上げたことを確信した。彼女はトレイを置くと、勝ち誇ったような、けれど母性すら感じさせる慈愛に満ちた笑顔で悠真を抱きしめた。
「大丈夫だよ、悠真くん。私はどこにも行かないよ。……だって、あなたは私の『特別な一匹』なんだもん。……ねえ?」
彼女の胸の中で、悠真は安堵の溜息をつく。
自分がもう、彼女という名の温かな檻から、精神的にも肉体的にも一生逃げられないことを、悠真は幸福感の中で受け入れてしまった。




