第14話:聖域の無菌室
視界が、熱に浮かされてぐにゃりと歪んでいた。
喉は焼けるように熱く、肺に吸い込む空気さえも重く感じる。昨夜からの悪寒が、今朝になって39度を超える高熱となって悠真の体をベッドに縫い止めていた。
切崎零奈という存在による環境の変化。度重なるショッキングな出来事。それらは悠真にとって心身の負担となり、元々あまり体の強くない彼はこうしてあっさりと風邪をひいたのだった。
「……あ、あ……」
乾いた唇から漏れたのは、情けないほどか細い吐息。
そんな悠真の額に、ひんやりとした、けれどどこか硬質な感触が触れた。
「おはよう、悠真くん。……顔が真っ赤。すごく辛そう」
霞む視線の先に、零奈がいた。
逆光を背負った彼女の微笑みは、いつも以上に白く、冴え渡っている。まるでこの病室——いや、彼の部屋という名の檻を照らす、唯一の光源のように。
「……れいな、さん。ごめん、今日、学校に、連絡を……」
「いいの、そんなこと。もう全部、済ませておいたから」
彼女は悠真のスマートフォンを、まるで自分の所有物であるかのように軽々と指で回して見せた。
「あなたの声をAIで合成して、学校に連絡を入れておいたからね。本人の声と一分の狂いもないから、誰も疑っていない。……今日から、あなたの世界には私しかいなくていいの。邪魔な外の世界は、私がシャットアウトしてあげたから」
ふと窓の外を見ると、アパートの外に、防護服に身を包んだ『G.A.R.D.E.N.』日本支部の医療班が軍隊のような整然とした動きで待機しているのが見えた。
彼の部屋の隙間という隙間はナノマシン・シールで密閉され、空気清浄機は最新型の軍用フィルターに換装されている。
ここはもう、ただのアパートの一室ではない。悠真を外界の不潔な要素から守り、彼女が管理するためだけの、最高レベルの無菌隔離施設だ。
「……薬、自分で飲むから」
震える手でサイドテーブルの市販薬に手を伸ばそうとすると、零奈はその手を優しく、けれど絶対に逆らえない力でベッドに押し戻した。
「ダメだよ、悠真くん。そんな不純物の混じった薬じゃ治らないよ。ご飯だって食べてないでしょ。……いいんだよ。あなたはただ、私に生かされることだけに集中して? 他のことは、何も考えなくていいから」
彼女は保温容器から、温かい白粥を匙ですくった。湯気と共に立ち上るのは、微かに甘く、鼻を抜けるような不思議な香り。
「はい、あーんして」
拒否する気力も、思考能力も、熱の中に溶けていた。
差し出された匙を受け入れると、とろりとした粥が喉を滑り落ちる。その瞬間、体の中を異物が駆け巡る感覚がした。
粥に大量に混入された『G.A.R.D.E.N.』製の医療ナノマシン。それは本来、致命傷を負った改造人間を戦場へ復帰させるための禁忌の技術だ。
(……あ、れ……?)
熱の苦しみが、瞬時にして多幸感へと反転していく。節々の痛みが心地よい痺れに変わり、重苦しかった呼吸が、まるで天国にいるかのような軽やかさを帯びる。
脳内の報酬系が強引にハッキングされ、悠真の意識は、底なしの甘い沼へとゆっくりと沈んでいった。
「美味しい? ……ふふ、あなたの脳が喜んでいるのが、このピアス越しに伝わってくるよ」
零奈は彼の右耳の通信機を優しく指でなぞり、それからおもむろに彼の寝巻きのボタンに手をかけた。
「あ……零奈、さん……?」
「汗、かいちゃったでしょ。着替えなきゃ。体も綺麗に拭いてあげる」
抵抗しようにも、ナノマシンのもたらす恍惚が全身の筋肉を弛緩させている。
彼女は手際よく悠真の服を脱がすと、温かいタオルでその肌を丁寧に、一寸の狂いもなく拭っていく。
自分という存在が、彼女という巨大な捕食者の手の中で、ただの物体として扱われているような錯覚。
彼女の冷たい指先が悠真の細い体の上を滑るたび、熱い肌が震えた。
「ねえ、悠真くん」
耳元で、彼女の声が響く。それは慈愛に満ちた聖女の声であり、獲物の死を見届ける死神の囁きでもあった。
「こうして弱り切って、私に全てを預けているあなたを見ていると……。本当に、このまま息の根を止めて、私の一部にしちゃいたいって……そう思っちゃうな」
彼女の冷たい指先が、悠真の喉元を優しく、愛おしそうに撫でた。
逃げ場のない優しさと、甘い毒。悠真は朦朧とする意識の中で、彼女なしでは呼吸すらできない体へと、ゆっくりと、確実に作り替えられていくのを感じていた。




