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番外編:獅子の隠密行、あるいは深紅の薔薇を狙う羽虫どもへの宣戦布告

 その日の朝、アシュベルク公爵邸の空気は、完全に氷結していた。

 執務机の上に置かれた、忌々しいほどに華美な招待状。近隣の伯爵家が主催する「幼き令嬢たちの茶睦会」。そこには、私の世界のすべてであるエルナの名が、一人の招待客として記されていた。


(……正気か? あのような、警備もザルで、どのような素性のガキが集まるかも分からぬ野蛮な集会に、私のエルナを放り出すだと?)


 十一歳の私の脳内では、すでに最悪のシミュレーションが数千通り展開されていた。

 不衛生な菓子を食わされて腹を壊したら? 階段で足を踏み外して、あの白磁のような肌に傷がついたら? あるいは――。


「……お兄様、行ってまいります! 頑張ってお友達を作ってきますね!」


 馬車に乗り込む直前、エルナが私に弾けるような笑顔を向けた。

 今日のために新調した、淡いブルーのドレス。レースの隙間から覗く細い手足。そして、期待に胸を膨らませて輝く瞳。

 その「無防備な愛らしさ」こそが、私にとって最大の懸念材料だった。


(……お友達? 笑わせるな。あのような場に集まるのは、エルナの清らかさを汚そうとする有象無象の羽虫どもに決まっている。特に、年端もいかぬ分際で『将来の婚約者候補』などと嘯く、浅ましいガキどもが……!)


 私は、エルナを乗せた馬車が角を曲がるまで見送った後、即座に背後の従者に命じた。


「……これより一刻、私は図書室に籠もる。何人たりとも、立ち入りを禁ずる。いいな?」


「は、はい! 坊ちゃま!」


 従者が扉を閉めた瞬間、私は自らの魔力を練り上げた。

 公爵家に伝わる秘術、形状変化の魔術。本来は敵地潜入や暗殺に用いるべき最高位の術式を、私は「妹の監視」という一点のために発動させた。


 数分後。

 鏡の中にいたのは、銀髪に眼鏡をかけた、地味で目立たない「他家の従者」に身をやつした私の姿だった。


(待っていろ、エルナ。……お前の周囲一メートルに近づく不浄な存在は、この私が一人残らず排除してやる)


 茶会の会場となった伯爵邸の庭園。

 私は、他家の従者たちの群れに紛れ込み、茂みの陰からエルナを凝視していた。

 私の視覚は、魔力によって強化されている。エルナの睫毛の震えから、彼女が手にするティーカップの温度に至るまで、すべてが私の監視下にあった。


「……あら、エルナ様。そのブローチ、とっても素敵ですわね」


 一人の令嬢がエルナに話しかける。

 私は茂みの奥で、持っていた記録用のペンをパキリと指先でへし折った。


(……慣れなれしく触るな、そのブローチは私が去年の誕生日に、特注の魔石を組み込んで贈った守護の宝具だ。貴様のような選民意識の塊に評価されるためのものではない!)


 だが、本当の地獄はそこから始まった。

 令嬢たちの輪の中に、数人の少年たちが合流したのだ。

 その中の一人……どこぞの侯爵家の次男坊らしき、生意気な顔をしたガキが、あろうことかエルナの隣に座りやがった。


「君、名前は? ……僕はルカ。君、すごく可愛いね。僕のお嫁さんにしてあげてもいいよ」


 その瞬間、私の周囲の草木が、私の漏れ出た殺意によって一瞬で枯れ落ちた。

 嫁? 誰が? 誰を?


(……殺す。……今すぐ、あのアホ面のガキを異次元に追放してやる。私のエルナに向かって、その薄汚い口から『お嫁さん』などという神聖な言葉を吐き出すとは、万死に値する!!)


 私は、ポケットの中に忍ばせていた小型の魔導触媒を起動させようとした。

 そのガキが座っている椅子の脚を、重力魔法で粉砕してやろうか。あるいは、その手に持っているタルトを、今すぐ腐らせてやろうか。


 だが、私の指が止まった。

 エルナが、少し困ったように眉を下げ、しかし丁寧にお辞儀を返したからだ。


「……ありがとうございます、ルカ様。でも、私はもう、お兄様のものになるって決めているんです」


 ――ドクン。


 私の心臓が、耳元で鐘を鳴らしたように跳ねた。

 変装術の維持が危うくなるほどの衝撃。


(……今、何と? エルナ、今、何と言った……?)


「お兄様のもの? ……変なの。お兄ちゃんは家族でしょ? 結婚はできないんだよ」


 ガキが余計なことを抜かしやがる。

 私は茂みの中で、地面を爪が剥がれるほどの力で握りしめた。


「……いいえ。お兄様は、お兄様なんです。……お兄様は世界で一番格好良くて、優しくて、私を一番大切にしてくれるんです。だから、私はお兄様の側にずっといるの」


 エルナは、確固たる意志を宿した瞳で、真っ直ぐに少年を見つめていた。

 その頬が、少しだけ誇らしげに赤らんでいる。


(ああ、あああああ!! エルナ! 私の天使! 私の至宝! 私の生きる意味!)


 私は悶絶した。

 冷徹な次期当主の仮面は、内側から噴き出した莫大な熱情によってドロドロに溶け去っていた。

 今すぐ茂みから飛び出して、彼女を抱き上げ、王宮まで聞こえるような大声で「愛している!」と叫び、そのまま屋敷の最奥まで逃亡したい。

 この子の全細胞に、私の愛がどれほど重く、執拗で、逃げ場のないものかを叩き込みたい。


 だが、その歓喜は一瞬で、冷酷な「現実」に引き戻された。


「……ふーん。でも、アシュベルク次期公爵って、すごく怖いって評判だよ? 僕のお父様が言ってたもん。あいつは人間じゃない、冷たい獅子だって」


「……そんなことありません! お兄様は……お兄様は、とっても温かいんです!」


 エルナが、ムキになって言い返している。

 その姿に、私の胸は締め付けられるような痛みと、得体の知れない「飢餓感」に襲われた。


(そうだ、エルナ。……私は冷たい獅子だ。お前以外の全てに対してはな。……お前が私のことを『温かい』と言ってくれるなら、私はその温かさを守るために、この世界の全てを敵に回しても構わない)


 だが、そのガキはさらに調子に乗って、エルナの手首を掴もうとした。


「いいから、僕と遊ぼうよ。あんな怖いお兄ちゃんより、僕の方が……」


 ――パキ。


 私の理性の最後の一線が、物理的な音を立てて断裂した。


 変装を解く必要さえない。

 私は、極細の魔力の糸を指先から放ち、少年の足元にある石畳に、微小な「空間の歪み」を発生させた。


「うわあああ!?」


 少年は、何もないところで派手に転倒し、持っていたジュースを自分の顔面に浴びた。

 周囲の令嬢たちが悲鳴を上げる。

 私は冷ややかな目で、泥にまみれて泣き出したガキを見下ろした。


(……私のエルナに触れようとした報いだ。命があっただけ感謝しろ、羽虫め)


 騒ぎに乗じて、私は素早くその場を離脱した。

 これ以上ここにいれば、私の独占欲が暴走し、伯爵邸ごと焦土に変えてしまいそうだったからだ。


 数刻後。

 アシュベルク公爵邸の玄関。

 私は、何事もなかったかのように、完璧な無表情でエルナの帰宅を出迎えた。


「……おかえり、エルナ。茶会はどうだった?」


「お兄様! あのね、お友達になれそうな子もいたんですけど……やっぱり、お兄様の側にいるのが一番いいなって思いました!」


 エルナは、馬車から降りるなり私に飛びついてきた。

 私は彼女の小さな体をしっかりと受け止め、その柔らかな髪に顔を埋めた。

 石鹸の香りと、お茶会の菓子の甘い匂い。そして、彼女自身の清らかな熱。


(……ああ、……っ)


 内側の獅子が、勝利の咆哮を上げている。


「……そうか。ならば、もう二度とあのような場所へ行く必要はない。……これからは、屋敷の中で、私とお茶を飲めばいい」


「はい、お兄様! 喜んで!」


 エルナは、私の言葉の裏にある「監禁」に近い独占欲など微塵も疑わず、満面の笑みで頷いた。


 私は彼女を抱き上げたまま、屋敷の奥へと歩き出した。


(……そうだ、エルナ。……お前は何も知らなくていい。……お前の周囲で、どれほどの男たちが音もなく社会的に抹殺され、どれほどの可能性が私の手で摘み取られているのか。……お前はただ、私の檻の中で、幸せそうに笑っていればいいのだ)


 十一歳のレオンハルトの瞳は、夕闇の中で、恐ろしいほどの執着を孕んで黄金色に輝いていた。


 今日の茶会でエルナに近づいた少年たちのリストは、すでに私の脳内に刻まれている。

 ……明日から、彼らの父親たちの事業に、少しばかり「不運」なトラブルが続くことになるだろう。


 私の宝物に触れようとした報いは、高くつく。


 私は、腕の中の小さな天使をより一層強く抱きしめ、二度と誰にも見せないと、自らの魂に深く刻み込んだ。

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