番外編:獅子の落涙、あるいは純白の薔薇を蝕む微熱
その日の朝、アシュベルク公爵邸の全機能は、一人の十一歳の少年の放つ「絶望」によって完全に停止した。
「……熱が、あるだと?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、地を這うような響きを帯びていた。
眼前に並ぶ侍女たちは、私の放つ無意識の圧に耐えかね、木の葉のように震えている。報告に来た筆頭侍女の手にある体温計……そこに示された「37.5度」という数字が、私の世界の均衡を粉々に打ち砕いた。
「申し訳ございません、レオンハルト様。昨夜、少しお庭で遊びすぎたようで……」
「……『遊びすぎた』? 貴様ら、あの子の側についていながら、その程度の管理もできなかったというのか」
パキ、と。
私が手にしていた羽ペンが、抵抗虚しく粉砕された。
(……ああ、ああああ! 私のエルナ! 私が三歳の時から、一寸の傷も、一点の曇りもなく育て上げてきた私の至宝が、病魔という名の不浄な存在に侵されているというのか……!?)
37.5度。常人ならば微熱と呼ぶだろう。だが私にとっては、それはエルナの生命の炎を脅かす大火災に等しかった。今すぐこの屋敷の全魔力を結集し、病の根源を焼き払いたい。いや、彼女の苦しみをすべて、この私の体に転移させたい。
「……どけ。私が看病する」
「ですが、レオンハルト様。本日は王立学院の視察が……」
「……視察? そんな瑣末なことが、エルナの健康以上に優先されるとでも思っているのか? 今すぐ中止だ。学院ごと、必要なら焼き払ってでも私の時間を確保しろ」
私は侍女たちを押し退け、エルナの寝室へと踏み込んだ。
カーテンの引かれた、薄暗い部屋。
いつもは元気に私を呼ぶはずの小さな影が、天蓋付きのベッドの中で、心細そうに丸まっていた。
「……エルナ」
私は、震えそうになる膝を必死に支えながら、彼女の枕元に跪いた。
「……お、おにいさま……?」
熱に浮かされたエルナの声は、掠れて、今にも消えてしまいそうだった。
その瞳は潤み、頬は痛々しいほどに赤く火照っている。彼女が小さく咳き込むたび、私の心臓は鋭いナイフで何度も突き刺されるような激痛に襲われた。
(……くっ、……あ、あああ! 可愛い。……いや、そうではない、死ぬほど愛おしい! だが、それ以上に、この苦しみを取り除けない自分の無力さが、殺したいほどに憎い!)
私は、冷たい水に浸したタオルを絞り、彼女の額にそっと置いた。
指先が、わずかに彼女の肌に触れる。
熱い。
いつもは心地よいはずの彼女の体温が、今は彼女を蝕む牙のように感じられて、私は奥歯が砕けるほどに噛み締めた。
「……お兄様、ごめんなさい……。せっかく今日、お花を一緒に見るって……約束したのに……」
エルナの小さな手が、布団の中から這い出し、私の服の袖を弱々しく掴んだ。
(……謝るな! エルナ! 悪いのはお前ではない。お前の健康を完璧に守りきれなかった私だ! この無能な兄を、好きなだけ罵ってくれ! だが、どうかそんなに悲しそうな顔をしないでくれ……!)
私は、彼女の手を両手で包み込み、そのまま自分の額に押し当てた。
「……謝る必要などない、エルナ。……花の庭など、お前が治ればいつでも私が用意してやる。……今はただ、眠れ。……私がここにいる。……お前の病魔が、私の存在を恐れて逃げ出すまで、一刻たりとも側を離れない」
「お兄様……。……おてて、あったかい……」
エルナは、安堵したように微かに微笑み、そのまま重たそうに瞼を閉じた。
その寝顔を見つめながら、私の理性の堤防は、ついに完全に決壊した。
(……ああ。……愛おしい。……このまま、この子を私の体温で溶かして、私の一部にしてしまいたい。そうすれば、病魔など入り込む余地はないのに。……いや、むしろ、私がこのまま彼女を抱きしめて、熱ごと奪い取ってしまえば……)
私の内側の獅子が、狂気じみた独占欲と自己犠牲の入り混じった感情で、ぐちゃぐちゃに掻き乱されている。
看病。そう、これは聖なる義務だ。
私は、部屋の外に控える医師に向かって、氷のような声で命じた。
「……おい、医師。……あと五分以内に、エルナの熱が0.1度でも下がらなければ、貴様の家系に伝わる医学書をすべて焚書にし、追放してやる。……全力を尽くせ。……あの子の苦しみを一秒でも短くしろ」
「レ、レオンハルト様……そんな無茶な……っ!」
「無茶ではない。私の命令だ」
夜が更けても、私は一睡もせずに彼女の手を握り続けていた。
数時間おきにタオルを替え、彼女が呻き声を上げるたびに、私は神に祈り、悪魔に呪いを吐き、ありとあらゆる呪文を彼女の耳元で囁いた。
「……エルナ。……聞こえるか。……お前は、私のものだ。……死も、病も、お前を連れ去ることは許さない。……もし運命がお前を奪おうとするなら、私は天界ごと引き摺り下ろしてやる」
それは、看病というよりは、もはや魂の繋ぎ止めだった。
夜半。エルナがうなされ、「お兄様、お兄様……」と、泣きそうな声で私の名を呼んだ。
(……っ!!)
悶絶。
胸を掻きむしられるような愛おしさが、私の全身を貫いた。
私は、躊躇することなく、彼女を布団ごと抱き上げた。
「……ここにいる、エルナ。……私は、ここにいる。……どこへも行かない。……お前の痛みも、お前の不安も、すべて私が食らい尽くしてやる」
私は、彼女の小さな体を自分の胸板に密着させ、その熱を全身で受け止めた。
彼女の吐息が、私の首筋にかかる。
甘い。ミルクの香りと、微かな熱の匂い。
その脆く、儚い存在を腕の中に感じているだけで、私の独占欲はかつてないほどの強度で固まっていく。
(……ああ、……エルナ。……お前がこうして私を求めてくれるなら。……お前が私の腕の中でしか安らげないと言うなら。……私は、お前が一生『弱い』ままでも構わないとさえ思ってしまう。……お前が、私なしでは呼吸さえままならぬほど、私に依存し、私に閉じ込められるなら……)
――いや。
私は首を振り、その邪悪な思考を振り払った。
私は彼女の健康を、彼女の幸福を願う兄であるべきだ。
だが、その裏側で、暗く濁った本能が囁く。
「この弱り切った姿を、私だけが見ている」「この涙を拭えるのは、私だけだ」という事実が、たまらなく甘美な優越感となって私を酔わせる。
私は、彼女の額に、静かに、そして長く口づけた。
「……早く良くなれ、エルナ。……お前が元気にならなければ、私はこの屋敷の者を全員、生かしておけなくなる……」
翌朝。
エルナの熱は、奇跡のように平熱まで下がっていた。
「……お兄様? おはようございます!」
太陽の光を浴びて、パチリと目を開けたエルナが、いつものように屈託のない笑顔を私に向けた。
その瞬間、私は極度の緊張と不眠、そして精神的疲労によって、その場に崩れ落ちそうになった。
(……ああ、……神よ。……よかった。……本当に、本当によかった……!)
私は、彼女の元気そうな姿を見た瞬間、膝の力が抜け、彼女のベッドの端に突っ伏した。
十一歳の次期公爵としての威厳など、もはや欠片も残っていない。
「あら? お兄様、お顔が真っ赤ですよ? どうしたんですか?」
エルナが、心配そうに私の頬に手を伸ばしてくる。
その手のひらの冷たさが、心地よい。
「……なんでもない。……お前が、治った。……それだけでいい」
「お兄様、ずっと一緒にいてくれたんですね。……ありがとうございます! 大好き!」
エルナは、私の首に元気よく抱きついてきた。
(……ドクン。……ドクン、ドクン……)
私の心臓が、再び暴走を始める。
昨日までの「死の恐怖」はどこへやら、今度は彼女の「元気すぎる可愛さ」という名の暴力が、私の残存していた理性を粉々に粉砕した。
(……可愛い。……あまりにも。……くっ、……あ、あああああ! 昨日の弱々しい姿も愛おしかったが、こうして私を窒息させんばかりに抱きしめてくるこの力強さ……! これこそが、私のエルナだ!)
私は、彼女の小さな体を、今度は力強く抱き返した。
「……ああ。……私も大好きだ、エルナ。……だが、もう二度と、あのような真似(風邪を引くこと)は許さない。……今日から、お前の生活管理はすべて、この私が直接行う」
「ええっ!? お兄様が!? お勉強の時間は?」
「……そんなものは、エルナの健康管理の合間にやればいい。……お前の食事の一口、飲み物の一滴に至るまで、私が毒見し、温度を確かめ、お前の元へ届ける。……いいな、エルナ。……お前を失いかける絶望は、一度で十分だ」
エルナは、「お兄様ったら、大袈裟なんだから!」と楽しそうに笑っている。
だが、私の瞳は笑っていなかった。
私は、本気だった。
この日から、アシュベルク公爵邸の侍女たちは、さらに厳格(かつ狂気的)になったレオンハルトの「エルナ健康管理プログラム」に、阿鼻叫喚の地獄を見ることになるのだが……エルナだけは、それをお兄様の「過保護な愛」として、幸せそうに受け入れ続けるのであった。




