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第12章(最終章):獅子の檻、永遠の番

 別邸の寝室を支配する静寂は、数日前とは全く違う色を帯びていた。


 お兄様に抱きかかえられ、泥にまみれたドレスを脱ぎ捨ててから、私の世界は塗り替えられたのだ。窓の外には以前と変わらぬ穏やかな緑が広がっているけれど、もはやそこへ逃げ出そうという心は、私のどこにも残っていない。


 不意に、規則正しい、けれど有無を言わさない重みのあるノックが響いた。

 扉が開くと、そこには軍服を完璧に着こなしたレオンハルトお兄様が立っていた。彼の背後には、二人の騎士に力任せに引きずり出された一人の女性の姿がある。


 燃えるような赤い髪。私を「拾い物」と呼び、絶望の淵へ突き落としたカトリーナ様だった。


「……あ、あ……っ」


 彼女の顔は、数日前までの傲慢な輝きを失い、死人のように蒼白だった。彼女を射抜くお兄様の黄金色の瞳には、底冷えする殺意だけが宿っている。


「エルナ、怖がることはない。……お前を傷つけた不届き者に、相応の報いを与えるだけだ」


 お兄様は私の傍らに歩み寄り、当然のように私の腰を抱き寄せた。彼の大きな掌から伝わる熱が、私の肌を通じて、心臓の鼓動まで支配していく。


「レオンハルト様……お願いです、お聞きください……っ! 私はただ、公爵家の未来を思って……あんな、魔力も持たない『人間』があなたの隣にいるのは、あまりに不釣り合いだと……!」


 カトリーナ様が床に伏し、震える声で命乞いを始めた。けれど、お兄様はその言葉を、吐き捨てるような嘲笑で遮った。


「公爵家の未来だと? 笑わせるな。……お前がエルナに吐いた毒、その一言一句を私は把握している。……お前はエルナを『足枷』と呼び、手放せと言ったそうだな」


 お兄様が一歩踏み出す。その瞬間、室内の空気が一変した。

 獅子の獣人としての圧倒的な威圧。本能的な恐怖に、カトリーナ様が喉を鳴らして喘ぐ。


「……お前にとって、エルナが何に見えるかはどうでもいい。だが、私にとってエルナは、私の魂を繋ぎ止める唯一の錨だ。この子がいなければ、私はとっくにこの国を焼き払い、獅子の本能のままに暴虐の限りを尽くしていただろう」


 お兄様の指先が、私の頬を、愛おしそうになぞる。その手つきは、慈しみというよりも、獲物を一生逃がさないと誓った捕食者の執着そのものだった。


「お前が『本来あるべき場所』と言った私の隣は、このエルナのためにのみ空けてある場所だ。……そこを汚そうとした罪、万死に値する」


「……あ、ああ……っ」


「連れて行け。……カトリーナ、お前の一族の領地は全て没収し、お前自身は北方の修道院で一生、その身を恥じながら過ごすがいい。……二度と、エルナの視界に入ることは許さない」


 悲鳴を上げるカトリーナ様が、騎士たちによって引きずり出されていく。扉が閉まり、再び静寂が訪れたとき、お兄様は憑き物が落ちたような、しかしより深い「熱」を孕んだ瞳で私を見つめた。


「……怖かったか、エルナ」


「……いいえ。お兄様が、私を守ってくださると分かっていましたから」


 私は、自分でも驚くほど穏やかな声で応えた。

 以前の私なら、彼のあまりの残酷さに震えていたかもしれない。けれど、王宮でジギスムント様に捨てられ、世界に独りきりになったあの夜を経て、私は悟ってしまったのだ。


 この人の狂気こそが、私の唯一の救いなのだと。


 お兄様は、私の返答に満足げに喉を鳴らし、そのまま私を寝椅子へと押し倒した。

 彼の軍服のボタンが外され、逞しい胸板が私の視界を塞ぐ。


「エルナ。……王家はもう崩壊した。ジギスムントは廃嫡され、ミリアムも消えた。……お前を縛る王妃教育も、他人の期待に応える義務も、もうどこにもない」


 彼は私の首筋に顔を埋め、深く、深く、私の香りを吸い込んだ。


「今日から、お前はただ、私だけの『エルナ』であればいい。……誰にも見せず、誰にも触れさせず、この別邸で、私の腕の中で、一生を終えるのだ。……それでいいな?」


 それは、究極の軟禁であり、一生をかけた呪いのような言葉。

 けれど、私を見上げる彼の黄金色の瞳には、一人の女性に選ばれたいと願う、あまりに脆く、激しい愛情が溢れていた。


「はい、お兄様……」


 私は彼の手を導き、自分の胸元へと置いた。


「……私を、もうどこへも行かせないでください。あなたの檻の中で、あなただけの色に染まって……朽ち果てさせて」


 お兄様の瞳に、歓喜の火が灯る。


 彼は私の唇を、今度は壊れ物を扱うような優しさで、けれど以前よりも深く、執拗に塞いだ。


 窓の外、春の夜の風がざわめき、静かな森を揺らしている。

 王都での栄華も、婚約破棄の屈辱も、カトリーナ様の嘲笑も、すべては遠い過去の霧の中に消えていった。


 今、この部屋を満たしているのは、二人の熱い呼気と、共犯者としての甘やかな誓いだけ。


 私は、私を閉じ込めた獅子の背中にそっと手を回し、ゆっくりと目を閉じる。

 一生、この檻から出ることはない。

 けれど、この暗くて温かな檻の中こそが、私が幼い頃からずっと探し求めていた、唯一の「本来あるべき場所」だったのだ。


(ああ、お兄様……愛しています。私を、死ぬまで離さないで――)


 獅子の咆哮が聞こえるような、激しくも静かな夜が、二人を永遠に塗り潰していった。

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