34
――あたしは、あたしが誰だかあんまりよくわからない。
かろうじて、名前はわかる。あたしの名前はちとせ。首にぶら下がった素敵なロケットペンダントに刻まれている名前。
記憶がどんどん消えていく。それはとっても変な感じだった。時々意識が朦朧として、どこかに取り残されている気分になる。
急な体の変化に記憶がついて行っていないんだろう。だからお前はこの部屋に閉じ込められている。それを誰かよくわからない人に言われた。
その人曰く、本当は一発で記憶が全て消えてもおかしくなかったのに、徐々に消えてるのは幸いだとか言っていた。
精神的に不安定だから、お前のことを完璧にコントロールできないが、記憶が安定すればすぐに作戦を実行に移せるとかそんなことを言っていた。
あたしの記憶は日に日に薄れていってる。どうしてだろうか、悲しみのような仄かな薄暗いものが、あたしに纏わりついているような感じがする。
そういえばあたしは、ずっと昔からここにいて、誰かと過ごしてた気がするんだけど、誰だったけ。
閉じ込められた部屋であたしは一人きり。記憶がすり減って、半年くらいは経ったらしい。時間の経過すら、あたしにとっては曖昧だ。
「現実ではあり得ない『龍』という幻想の生き物が破壊の限りを尽くす。学院の存在を根底から覆せるチャンスだったのに」
「物理的にだけじゃない。あいつらの権威も、精神も、破壊の限りを尽くせる」
「だから、あいつらを攫ったというのに……くそが」
「半年経ったが、被験体の精神は安定しない。無理やりに作戦を実行すべきじゃないか」
「それはあまりにもリスクが大きすぎる。これまでの実験の成果が一瞬で飛ぶ可能性があるぞ」
そうだったんだ。……ふうん。
昼夜問わず聞こえてくる、組織の人たちの怒りや、焦りの詰まった怒鳴り声。聞き耳を立てていれば状況はなんとなく把握できた。
龍の能力は耳がすごくいいみたいだ。ある程度の近さの人間の声であれば聞き取ることができる。
でも、だからと言ってあたしに何ができるんだろう。「龍」の力で、この建物を壊す?
壊して、逃げ出して、そのあとは? その学院ってところに行ってもあたしは歓迎されるとは限らない。結局あたしは一人きりだ。
鉄格子の嵌め込まれた窓から、太陽と月が交互に登るのをぼんやりと眺めて、何もできずにあたしはただ、部屋の中で座り込む生活ばかりが続いていた。大きな翼を折りたたんで、太くて鱗の生えた尻尾はとぐろを巻いて。尖った爪をじっと見つめて。ガラス窓に映った尖った耳に感謝しながら、あたしは何もできない。
けれど、そんな閉じこもった生活は永遠じゃない。いつしか終わりがやってくる。
停滞し、作戦が実行できないことに煮詰まり、ついに剛を煮やした組織が、ある時声を荒げていた。
「このままではあの派閥からの支援金も打ち切られる可能性があるぞ」
「じゃあどうする。被験体一号を特攻させるか」
「いや……あれはスペアにする。俺たちには龍を作り出した実績も、データもある。もう一体、作り出せばいい」
「そうすると、今ある資金を全て使い切るぞ。その案は最終手段だろ」
「だが今その最終手段を使う時が来たんじゃないか」
「では、別の子供を用意しなければ」
「十倍のペースで実験を受けさせれば、一号よりも遥かに早いペースで龍を作り出せるはずだ。負担をかけない前回の実験とは異なる。抵抗するようなら拘束してでも受けさせろ」
その声が聞こえた途端、あたしは思わず立ち上がった。
悍ましい話を、淡々と話し続けている大人の声。なんでもないように、まるで人間を人間として扱わない非道な奴ら。
それでも、あたしだけがこんな目に遭うだけならよかったのに。そうじゃない。あたしが役に立たないから、違う子が犠牲になろうとしている。
「あたしのために、あたし以外の他の子が、犠牲になるの?」
ずきん、と頭が酷く締め付けられるような痛みに襲われた。自分の言葉で、自分を傷つけた。
あたしはその痛みを、深く苦しい絶望をなぜだか知っている。そして、それは許されないことだ。絶対に。
「そんなの……だめだ、だめ!」
胸の奥で炎が燃えている。あたしの中で、確かに熱の灯った炎がメラメラと燃えたぎっている。
そんなことさせていいはずがない。あたしのために誰かが犠牲になるなんて 〝これ以上〟許せない。
じゃあどうすればいい?
――答えは簡単だ。あたしが犠牲になればいい!
「それじゃあ計画を進めるために、政府に計画案を……」
「予算捻出のための根回しを、なんとか……」
金、権力、欲望のため。そんなことばかり。あたしたちは生きている。それにこれから犠牲になりそうな子達だって、生きているのに。
あたしたちは道具になるために生きてるんじゃない。
沸々と、湧き上がる熱い熱。マグマが沸騰して、内側から迸る炎のようなエネルギー。
「あたしが、全て、壊す」
あたしの爪が、初めてうなりを上げた。固く閉ざされた鉄の扉を、十回ほど切り込めば、やがてぎしし、と嫌な鈍い音を立てて扉は崩れ落ちた。両隣に立っていた見張りの組織の奴らは、あたしがそんなことをすると思わなかったのだろう。見張りの役目だっていうのに、あたしを止めることもできず呆然と立ち尽くしている。あたしは両翼を広げた。
後ろから止める声が聞こえる。どうでもいい。何もできない惨めな大人たちに、誰かを犠牲にさせることなんて許されない。
ラボの場所は知っている。当時あたしが実験を受けていた場所。記憶が完全に消えていなくてよかった。あたしは朧げな記憶で実験の行われていたラボルームへ辿り着くと、思い切り尾っぽを叩きつけた。ぐにゃ、と硬い扉が凹む。その凹んで傷んだ扉に、両手で思い切り爪を立てて、力のかぎりラボルームの扉をこじあけた。
「被験体一号! なぜここに!」
「暴走だ! 早く止めろ!」
「精神不安定で動けないはずじゃなかったのか!」
狼狽える大人たち。こんな大人たちに、未来を閉ざされるわけにはいかない。
よくわからないモニター、機械、パソコン。紙の資料。ねえ、どれが重要なの。全部重要なの。
じゃあ、あたしが全部全部壊してあげる。
「火器を使え! なんとしてでも止めろ!」
「子供にそんなことをしては、死んでしまいます!」
「死ぬわけないだろ、相手はドラゴンだぞ。強靭な肉体だ。子供といえど容赦はするな」
あたしはグルル、と喉の奥から唸り声を上げた。次の瞬間、そばにあったパソコンを爪で叩き割った。ぐしゃり、とただの鉄の塊になった、哀れな四角い箱。
尾っぽを回転するように振り回せば、一気にラボ中のモニターが崩れ落ちていく。ガラスや機器の破片が、あたし自身に突き刺さった。痛くて痛くて仕方ない。でも、そんな場合じゃない。あたしはこの手を止めるわけにはいかない。例え破壊するたびに新たな傷が生まれても。ガシャン、どしゃん、壁もついでに崩れ落ちて、何かが壊れるたびにショートするような火花がバチっと舞った。その火花が近くの書類に飛んで言って、ぼうぼうと書類も燃え出した。
――熱い!
背中が、刺すような痛みに襲われた。何か巨大な破片でも突き刺さったのかと後ろを振り返ると、大人たちが炎をあたし目掛けて噴射している。武器だ。明確にあたしを倒そうとしている。まるで、どこかで読んだ物語みたい。悪役のドラゴンを討伐しようとする勇者みたい。実際にはこいつらは悪役なんだけれど。あたしの目から涙が溢れた。わかりきっていたことなんだよ。それでも、暴れる龍を抑えるためには、炎を吹きかけてもいい。そんな対象でしかないんだ。あたしはそうなんだ。
背中が焦げるような、嫌な匂いに襲われて。両足にもその炎が回りそうになって、あたしは傷だらけになってしまった両翼を振って、その炎を強風で押し返した。煽られた炎は別の方向へと向けられ、舞い散っていた書類に炎は移る。小さな火種となっていたそれに、大きな炎が交わって、さらに部屋の中は炎で満ち溢れていく。
もう、この部屋の中に「形」の残っているものは何一つない。
「やめろ! ああ、この化け物が!」
「貴重なチップの構造データが! どうする、実物はあと一つしかない!」
「バックアップがあるだろう!」
「ありません。万が一にもあってはならないと、長が」
「その万が一があったから、たった今消えてしまったじゃないか!」
「ローカルにしかデータがないだと!? ふざけるな!」
「構造データがなくては、いくら現物があっても作り直せないぞ!」
大人たちが怒鳴り合っている。腹の底から響く男の人たちの声って、地鳴りみたいだ。本当に嫌い、大嫌い。
けど、この狼狽えようと混乱。きっとあたしは使命を果たせたんだ。
あたしはほっとため息をついた。身体中が、まるで巨大な拳で殴られたように、痛くてたまらない。立っているのがやっとだ。ただ、顔を上げたその先に、ビルの強化ガラスが割れているのが見えた。ガラス越しじゃない夜空を、あたしは初めて見た。
ガラスを通さない、そのまんまの濃紺の空。散りばめられた美しい星たち。本能で、あたしは最後の力を振り絞って翼を広げた。
飛ばなくちゃ。
「待て、行くな! 被験体一号!」
「お前まで逃げられたら、計画が全てぱあだ!」
「力だけの化け物めが!」
後ろから惨めな声が聞こえるけれど、あたしは血を流しながら夜空へと飛び立った。夜の風があたしの傷らだけの体を更に痛めつける。
ギリギリと体が音を立てるように壊れていく感覚がしたけれど、あたしはとにかく風をきって飛び続けた。
――どこだっけ。あたし、どこかに行かなきゃいけない気がするんだ。
なんだろう。なぜなんだろう。
そう、どこかの学校、学院。そこに誰かが行ってしまったはずなの。
守らなきゃ。あたし、誰かを守らなくちゃ。あたし、何かを忘れてる。
あたしの大切な人、どこかにいるはずなの。
行かなきゃいけないとこがある。そこにいけばいい。多分そうだ、そうに違いないんだ。
あたしには、やらなきゃいけないことが、きっとそこにある。
あれ、あたしなんで飛んでるんだっけ。あたし、何をしてるんだっけ。
あたしは……あれ? なんで体がこんなに痛いんだっけ。
あたし、あたしって、〝誰〟なんだっけ。
うん……あたしって、人なの? 人? 誰? 何?
でも、なんでもいい。逃げなくちゃ。
ここじゃないどこかへ、逃げなくちゃ。
――約束、守れなくてごめんね。




