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「どういう、こと……ですか」



 雷くんの表情はとても冗談を言っているようではなかった。そもそもこの状況で冗談を言うわけなんてないんだけど、あたしは今から雷くんが笑い飛ばして嘘だって言ってくれないかなってほんの数秒願ってしまった。


「雷、ほんまか」


 深雪ちゃんが咄嗟に、あたしの前に立ち塞がった。あたしを庇うように両手を大きく広げている。


「深雪ちゃん」

「ちとせ。下がっとき。こいつがあんたをケガだらけにしたんかもしれんやろ」


 確かにそうだ。あたしは大怪我を負って、目を覚ましたら記憶喪失になっていたんだから、あたしを傷つけたのも雷くんなのかもしれない。深雪ちゃんが警戒するのも当然だ。でも、本当に雷くんがあたしを傷つけたの? あたしたち、これまでずっと裏切られてたの?

 雷くんは口を開かなかった。そしておもむろに、中指にはめていた銀色の指輪を外した。指輪はかちっと音を立てると、指輪の内側から何かがこぼれ落ちた。嵌め込まれていた石が、ポロリと雷くんの手のひらに転がり落ちてきた。それは綺麗な真っ白な真珠だった。


「信じてもらえないとは思うが……違う。俺は記憶を奪っただけだ」

「誰がそんなこと信じるん? なんで奪ったん?」

「……ちとせが、傷つかないように、ちとせの記憶を奪った。お前たちは、怪我を負ったからそのショックでちとせが記憶を失ったと思っただろう。恐らく医者も。だが、違う。俺は記憶を奪って、ちとせが危険な目に合わないようにするつもりだった」

「せやけど、あたしが出会ったとき、ちとせは大怪我を負ってた! あんたの言ってること何一つあっとらん!」


 深雪ちゃんは今にも泣きそうな声をしている。深雪ちゃんだって辛いに違いない。喧嘩ばかりの二人だけど、確実に仲良くなってきていたのに。歩み寄ってきていたはずなのに。どうしてこんなことになってるんだろう。あたしたちの仲は今、切り裂かれそうになってるの。


「誤算だった。俺がちとせの記憶を奪えば、ちとせはここに来れないはずだった。なのに突然俺の前に現れた。だから俺は初めてお前に会った時に、動揺して思わず口に出してしまったんだ。『なんでここにいるんだ』と」


 あれは深雪ちゃんに投げた問いかけじゃなかったんだ。勘違いじゃなくて、あたしに咄嗟に質問しちゃったのか。そして、それを誤魔化すために、深雪ちゃんに喧嘩を売ったんだ、雷くんは。


「――ちょっと待ってください。記憶がないから来るはずがなかったって、じゃああたしは記憶があれば、そもそも雷くんみたいにここに来る予定だったんですか」

「……」

「雷くん。教えてください。あたしは、『誰』なんですか」


 雷くんはグッと唇を噛み締めた。眉間に深く深く皺がよって、硬く握り締められた拳が、彼の苦しさを表している。

 ずっと耐えてきたの? 一人きりで、あたしを守るために、あたしの記憶を丸ごと背負ってたの、雷くん。


「ちとせ、雷を信じるんか」

「深雪ちゃん……」

「深雪が信じられないのも正しい反応だ。いきなりこんなこと言われても、嘘かもしれない。二人を騙して、もしかしたら二人をいきなり襲うかもしれない」


 雷くんがスパイだって情報が確かなら、それもあり得る話なのかもしれない。でも。

 あたしは、雷くんに一歩近づいた。固く握りしめられた拳を両手で包み込んで、丁寧に一本一本引き剥がしていく。



「雷くんが嘘つきかどうか、わかりません。でも、あたしは今までの雷くんを知っていますから、あなたがどんな人か知っています。だから雷くんの言葉を信じたい、そう思っているあたし自身を信じたいんです」



 雷くんは今にも泣き出しそうだった。彼にそんな顔をさせたいわけじゃないのに。 


「……組織を抜ける時、俺はお前に暗示をかけた」

「暗示?」


 自分の罪を吐き出す雷くんは、喉から必死に声を絞り出していた。


「予めちとせのロケットに嵌め込まれていたこの真珠を奪ったら、ちとせは記憶を失うようように、した」

「あんた、暗示なんか掛けられるん?」

「掛けられるように、〝特訓させられたんだよ〟。俺はそういう環境下にずっといた。上手い人は半永久的に掛けられるらしい。ただ、俺の暗示は下手くそだから、掛ける方法と解く方法は対になる。何かの出来事をきっかけに、何らかの暗示を掛ける方法。この場合逆に……ちとせは、この真珠をロケットにはめ込み直したら、記憶を思い出す。思い出してしまう」


 この人はずっと何かを背負っている。あたしと年も変わらない男の子でしかないのに、自分の辛い人生と同じくらい、重いあたしの人生まで背負い込んで両足で踏ん張ってなんとか立ってるんだ。


「……雷くんは、あたしに記憶を思い出して欲しくないんですね」

「そうだ。そうだよ。だから、今ここで、この真珠を丸呑みしたい。ちとせの苦しみを、全部俺が飲み込みたい」

「嫌です」


 雷くんが絶望を吐き出し続けるよりも早く、あたしは雷くんの意思を否定した。


「雷くんが背負ってしまったもの、あたしが雷くんに背負わせてしまったもの、あたしに返してください」

「いやだ……ちとせには、何も知らずに、苦しいことも何も思い出して欲しくない」


 雷くんはだだをこねるみたいに首を何度も横に振った。

 雷くんにとっての〝ちとせ〟は、どれだけ大事な人なのだろう。どうして一人で苦しむ道を選ぶのだろう。

 あたしは雷くんにとって、それくらい大事な存在だったんだろうか。それでも、あたしは今の〝ちとせ〟なんだ。


「あたしがどれくらい苦しい過去を生きてきたのか知りません。思い出したあと、思い出さなきゃよかったって思うかもしれません。けど、あたしが今一番嫌なのは、雷くんにそんな顔をさせてしまうことです」


 過去のちとせが雷くんにとって大事な人だったように、今のちとせにとっても、雷くんは既に大事な人になっているから。


「ちとせ」

「あたしが記憶を取り戻さない限り、雷くんが何かを背負ったままになるのなら、それはあたしの本当の望みじゃないんです」


 深雪ちゃんはあたしたちのやりとりを、黙って見つめていた。

 あたしは手のひらを雷くんにずい、と差し出した。雷くんは躊躇して、何度も何度も手を差し出したり引っ込ませたりして、そして最後には震える手で、あたしの手のひらに真珠の粒をポツンと乗せた。

 あたしはペンダントのロケットを開ける。何度も何度も眺めた、「CHITOSE」の文字。誰がどんな意味を込めて名付けてくれたんだろうって、考えない日はなかった。窪みに受け取った真珠をはめ込んでみると、収まるべきところに、きちんと嵌まり込んだ。

 パチン、と真珠がはめ込まれた音が鳴る。

 すると、あたしの頭の中に光が飛び込んで来た。



 きゅううううっと脳が締め付けられる。



 どんどん流れ込んでくる、あたしが、あたしである証。あたしの生きてきた道。洪水みたいに、押し寄せてくるあたしの記憶。

 あたしの……〝本来の名前〟。



「ハイジ」



 あたしが呟いた、それは童話の主人公の名前なんかじゃない。

 あの時深雪ちゃんと一緒に見つけた、古ぼけたメモに書かれていた文字。



「廃れた時間」



 あれは、あたしに与えられた、呪いだった。


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