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 逃げて、逃げて逃げ続けた。

 研究棟から飛び出した時、幸いにも大人たちの姿は見えなかった。あたしたちは一番安全であるであろう、秘密基地、地下書庫を目指すことにした。

 とにかく走った。汗が額から玉のように噴き出して、流れて流れても溢れていく。舞い散る雪が汗を急激に冷やしていく。息がどんどん切れて言って、苦しい。酸素が薄くなっていくような目の前が真っ白になりそうな感覚。

 途中で大人に見つかりそうになったら、息を潜めて茂みに身を潜めた。大きく呼吸をしないと苦しいのに、息を止めないと気配で見つかってしまう。そんなことを数回繰り返して、繰り返し続ければ大きく体力は削られていく。

 体育館倉庫の裏までどうにか辿り着いて、思わずあたしたちは一斉に大きく息を吐き出した。これもまた幸運なことだけど、こちら側にタイミングよく人がいなかった。この書庫へ繋がる隠し通路を知っているのは、深雪ちゃんくらいだからだろう。

 ここまで来れば秘密基地は目と鼻の先。どうにか三人でゆっくり会話ができる。今は情報整理の時間が欲しかった。


「一世さんは、あたしに向かってクララって言いました」


 深雪ちゃんが茂みを掻き分け隠し扉を掘り当てる背中を見つめながら、あたしはポツリと吐き出してしまった。


「……せやな」

「ごめんなさい。結局、あたしがスパイだったんですね」

「そうかもしれん。けど、あたしは今の状況をちとせの責任にするつもりはないで」


 うちはうちの意思で調べたんや。深雪ちゃんは扉を探す手を止めて、こちらを振り返った。

 いつもと同じ、強い意思を持った輝く深雪ちゃんの瞳がそこにあった。

 今更ながら、深雪ちゃんがこんなに可愛くて綺麗なのは、外見だけじゃなくて、内側から燃えたぎるような信念を持っているからかもしれない、なんて状況に似つかない仮説を立ててしまった。


「あんたもそうやろ、雷」


 深雪ちゃんは当然、もちろんという返事を期待したみたいだった。今までやってきたことに後悔はないだろう。深雪ちゃんの問いかけにはそんな気持ちがギュッと詰まっていた。

 けれど、雷くんからの返答はなかった。あたしは思わず振り返った。


「雷くん?」

「……ちとせはクララじゃない」

「え?」


 深雪ちゃんがガチャガチャと隠し扉を開ける手をぴたりと止めた。よろけながらに立ち上がって、雷くんに向き合った。

 あたしにとっても思いがけなかった。「はい」でも、「いいえ」でもない答えが返ってくるなんて想定していなかった。ただでさえ一世さんの件で混乱しているのに、今なんて言った?


「あんた何を言って」



「俺だ」



 深雪ちゃんの追求の言葉はかき消された。

 さっき走り切った時に流した汗が粒のように浮き上がって、流れていく。雪は時間が経つごとに粒は大きくなっているようだった。お互い洋服は汗と泥と雪でぐちゃぐちゃだ。

 信じたくないセリフが、聞こえた。あたしも深雪ちゃんも、聞き返せなかった。聞き返して、これ以上何もかも崩れ去るのが怖かった。


「――一世はちとせに向かって言ったんじゃない。ちとせの後ろにいる俺に向かって言ったんだ」

「あんた、何言うとんの、ふざけてる場合じゃ――」

「俺が正真正銘本物の、学院に潜り込んだ組織の、スパイだ。そして……」


 雷くんはあたしをじっと見つめていた。

 もう、あたしは観念した。吸い込まれそうな大きな瞳。なんとなくわかってしまった。この短期間、密度のある時間を過ごしたんだもん。

 彼の言い出そうとしていることが、わかる。だから、あたしも視線を逸さなかった。

 けれど願ってしまった。残酷な真実が明らかになるくらいなら、ずっと嘘の時間を過ごし続けられればいいのに。

でももうそんな時間じゃないんだね。とうとうあたしたち、辛い何かを飲み込んで歩いて行かない時が来ちゃったんだ。



「俺が、ちとせの記憶を奪った犯人だ」



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