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 三人とも、背後に立っていた人物に、呼びかけられるまで気が付かなかった。

 驚いて一斉に振り向く。完全に油断していた。そして、彼がこんなことを引き起こしたなんて、予想もしてなかった。

 


「一世……?」



 一世さんはいつものように背筋を伸ばして、隙のない格好でそこに立っていた。穏やかで、いつも深雪ちゃんを支えてくれていて、時にあたしたちの事もサポートしてくれていた一世さん。姿形、全て一世さんのはずなのに、まるで別人のように錯覚してしまうのはなぜだろう。


「これはおとりですよ。本気であのようなボールで、結界が潰せると思っていません。ですから、ちとせさんの能力をすべて詳らかにすること、そして学院を混乱させること。そのふたつが目的でした」

 

 こんなにあたしの心は冷え切っているのに、目の前の一世さんは晴れやかだった。


「あなたのためです、深雪様」


 目を細めて微笑んでいる。まるで何かを愛おしむような、深い愛情の溢れる態度。けれど違う。それがどこか行き過ぎているような、背筋に寒気が走るほどの威圧感。異常なほどの、偏った感情。


「何言うとるん、一世。あんた、どうしたん」

「この学院を開放しましょう。深雪様。そして、逃げましょう。ここからも、貴方の立場からも」


 一世さんは両手を大きく広げ、まるで深雪ちゃんを受け止めようとしているようであった。だけれど、当然深雪ちゃんが一世さんの元へ向かうことはない。むしろ距離を取るために、後ろに二、三歩下がった。

 あたしの額からも、たらりと冷や汗が流れる。こんなにも、大人から圧をかけられたことなんてない。

研究棟の周りが騒がしい。恐らく学院内の大人が総出であたしたちのことを捜索しているのだろう。ここが見つかるのも時間の問題だ。

一世さんは涼しい顔で、そんな騒音に耳を傾けていた。それどころか、どこか楽しそうだ。

 狂気の沙汰だ。こんな事態を平然引き起こして、平然と受け入れて、それであたしたちの前に当然のように現れるなんて。


「学院は大混乱ですね。今、ちとせさんを差し出せば、どうなるんでしょうか」

「ちとせがスパイやって、あんた学院長に密告したんか!?」

「龍である証拠も含めて、さきほどのシナリオの通りすべて報告しました」


 この人は一体誰だ。

 あたしたちが見ていた一世さんは一体なんだったのか。

 そうか。あたしたちは今まで一世さんのほんの一部分しか見てなかったのだ。一世さんが見せていたのは、少ない嘘偽った光の部分だけ。本当は大部分が影と闇に覆われていたのだ。一世さんは出会った頃から何かが変わったわけじゃない。出会った頃も深雪ちゃんのためだけに仕事をまっとうしていた。そして今も、深雪ちゃんのためだけに、使命をまっとうしようとしている。例え、学院とあたしたちを含む其の他全てを犠牲にしてまでも、深雪ちゃんのためだけに。

 そこに深雪ちゃんの意思は、無い。


「このままちとせは、捕まったら、どうなるんや」

「酷いことはされないと思いますよ。ただ、ちとせさんの検査や、事情聴取に時間を取られるでしょうね。――その間に、その隙に全て私が壊します」


 ただでさえイレギュラーな存在のあたしだ。学院もどのように対応をするのか、検査はどのように進めればいいのか。対策会議に次ぐ会議になるに決まってる。あたしの存在が、学院を破壊するきっかけになってしまう。

一世さんの言葉は暗に言っている。本当の意味で結界を破壊する準備はすでに整っているのだと。

 深雪ちゃんは声を震わせていた。


「今言ったことを、言う。お爺様に、そしたら……」

「子供のいうことを、信じてくれますか?」


 深雪ちゃんのことを「子供」と称する一世さんは、初めて見たような気がする。


「あなたのお爺様の性格は、あなたが一番よく分かっている。龍の能力を知っていながら隠した孫娘の意見と、長年木曽家に支えてきた経ヶ岳家の私。どちらの意見を正しいと判断するでしょうか。わかりますよね」


 正論だった。まず、遡ればあたしが能力持ちだと発覚した時に報告しなかった事も、こちら側にとって不利な状況を作り出していた。例え検査結果を削除していたとしても、マスターの記録を確認すれば判明するはずだ。その時点であたしたちの信用は地に落ちる。あたしをスパイ疑惑から晴らすためだった、組織の目的を突き止めたかった。それをどれだけ言葉連ねても、あたしをスパイではないと判断したが故の深雪ちゃんの行動は、学院長にとって信用するに値しない。だから、あたしたちの言葉は何一つ受け入れてはもらえない。

 そんな目で見ないでくださいよ、と一世さんは笑う。この状況でもまだ笑えるのか。それもそうか。この状況を作り出したのは一世さんだ。


「ああ、勘違いされては迷惑なので先に言っておきます。私はあの胸糞悪い組織の一員ではありませんよ。あくまで利害関係が一致したので手を組んだだけです。つまり、私はあなた方の突き止めたかった〝スパイ〟ではありません」

「じゃあ、本当のスパイはどこにいるんですか! あなたは正体を知っているんですか?」

「ええ。私はスパイの正体を知っていますよ。ですが、スパイの方は、私が組織と手を組んでいたことは知らないでしょうね」


 憐れむように目を伏せた一世さんの、その顔が本心からくるものではないことはもうわかっている。

 一世さんはうっそりと笑った。悪魔が微笑んだ。今のあたしたちにとって、彼は悪魔だ。


「なんでなん、一世。うちのこと、信頼してくれてたんやないの」

「――貴方が生まれた時は、貴方のことを恨みました。貴方さえ生まれてこなければと。本来経ヶ岳家でもなんでもない私が、なぜ貴方のために尽くさねばならないのか、と」

「一世」

「けれど、貴方は折れませんでしたよね。両親と引き離された私に付き纏い、そして勉学にも経営学にも励み――次第に、〝オレ〟の悩みなんて、ちっぽけでしかないと思った。貴方についていこうと、決めた」

「せやったらなんでこんなことするん!? 学院はうちにとって、大切で、なんでそれなのに、壊そうとなんて」


 一世さんは心底耐えられないといった風に吹き出した。くつくつと笑う。それは幻想ですよ、と断言する一世さんの瞳はどこか虚ろだ。


「小さな貴方が詰め込み学んでいくのを見て、段々とオレは疑問を持つようになった。俺は木曽の家でも経ヶ岳の家の生まれでもないから、貴方が苦しそうにもがいているようにしか、見えなかった。たとえ貴方がどんなに頑張ると宣言しても、健気に机に向かっても、オレには」



 そんな時、組織が声をかけてきた。



「ああ、貴方を救うためにオレは経ヶ岳に来たんだと、天命を受けたような心地でした。簡単に俺を経ヶ岳家に引き渡した元の家族は、もう俺に二度と会うこともしない。金だけ終わっておさらばだ。経ヶ岳家はオレの意志なんて無いものとして扱う。こんな家に従うつもりもない。オレには貴方しかいない、深雪さま、貴方だけだ」


 狂気の沙汰だ。その狂気で、ひとつの学院を壊そうとしてるの。あたしたちが安らいで過ごせる場所を、壊してまで深雪ちゃんを。


「どうして……組織って、貴方が手を結ぶほど強力なんですか」

「それは、貴方がよくお分かりなのでは? ……クララ」


 クララ。それは学院が掴んでいるスパイのコードネーム。それを発する一世さんの、憐れみを含んだ同情するような視線。


「その名前をあたしに向けて呼ぶってことは、やっぱりあたし、が、」

「ちとせ! 今は逃げることが先や!」


 研究棟の周りはいつの間にかより一層騒がしくなっていた。このままでは次第に大人に取り囲まれるだろう。


「一世、うちは」

「今は一緒に来て頂かなくて構いませんよ。私もやらなくてはいけないことがあります」

「あんたが、言ってる……学院の開放を、やるって言うんか」

「そうですよ? 無事に終わったら、迎えに行きます。深雪様」

「逃げられへんよ、一世。どうやって逃げるん? 今の学院が出入り口を監視してないわけないやん」

「……結界は壊せるんですよ。深雪様。ひいお爺様の日記を読まれたでしょう」


 まさか、そこまで把握しているのか。あたしたちは戦慄した。


「完全に壊すのは難しい。けれど、人一人くらいなら潜り抜けられます。結界を相殺する電波と、力を解放した能力者が合わさればね」


 あなたたちも一度体験したでしょう。電子機器と能力者の波長が合えば、掛けた強力な磁場を切り崩せることを。流ちょうに説明する一世さんに釣られ、あたしたちの頭には秋に試練の記憶が蘇った。


「電波って……だって、それは」

「そりゃあ結界全部を切り崩すには、大きな力が必要です。けれど、微力な電波を出す電子チップがあれば、一人なら潜り抜けられる……これで、私は出入り自由なわけです」


 監視の目も気にせず、組織とやりとりもできましたよ。そう語る一世さんの瞳には光は宿っていない。埋め込んで頂いたんですよ、貴重な電子チップだったらしいですがね。一世さんは愛おしそうに右手首をするりと撫でた。


「一度埋め込むと二度と取り出せないそうです。けれどそんなことはどうでもいい。これで長年の夢が叶うのならば」


 それまで、ご友人たちと最後の逢瀬を楽しんでください。深雪様はじっと待っているだけでいい。それだけであなたは自由になれる。

 一世さんは勢いよく上空に向かって飛び上がった。コウモリの翼がバサバサと羽ばたいていく。

 結界なんてものともしない。一世さんが白状した通り、電子チップが埋め込まれているのだ。内通者なら、きっとそうに違いない。


「おい深雪! 逃げるぞ! もう人が来る!」

「隠し通路が、ある……から、そこから。行ける」


 あたしたちはどんどん小さくなっていく一世さんの影を最後まで見送ることはなく、深雪ちゃんが壁を素早く弄り、滑るように壁のタイルを外して通路を発掘させると、急いで穴を潜り抜けた。

 これでいいのか、これで正しいのか。何が正しいのか、あたしたち三人ともわからなくっていた。

 けれど今は逃げるしかない。何も考えずに大人たちの手から逃げ出すしかない。


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