第八章:執刀幻覚
#犬神医師の解剖学的愛着律 #サイコパス外科医 #禁断の愛 #メディカルホラー#医療グロ
不眠三十六時間。血中のカフェイン濃度はすでに毒性レベルに達していたが、それは朱里が私の精神に注入し続けている毒に比べれば無に等しかった。瞼を閉じるたび、蓮の頭蓋を切り裂く骨鋸の音が聞こえ、朱里の囁きが追いかけてくる。
『手が震えているわよ、江戸さん』
今日、私は聖命大学病院で弓部大動脈置換術(Aortic Arch Replacement)の執刀を執らねばならない。神の如き冷静さが求められるオペだ。
「十号メス」
器械出しの看護師に告げる。自分の声が、まるでサンドペーパーを擦り合わせたような掠れた音に聞こえた。
開胸された患者の胸元に身を乗り出した瞬間、視界が揺らぎ始めた。十万ルクスの無影灯の光が突如として赤く染まり、地下室の血溜まりのように見えた。滅菌ドレープの隙間から、患者の顔を覗き込む。
一瞬、心臓が止まった。
中年男性であるはずの患者が消えていた。そこには、青い布の下で胸腔を大きく抉られた蓮が横たわっていた。私が惨殺した時の姿そのままで。医療用テープで固く閉じられているはずの彼の両目が突如として開き、私に向かって卑屈な笑みを浮かべた。
『自分の罪を隠すのに、あと何針縫えば気が済むんだ、江戸?』
蓮の声が耳の奥で反響し、EKGモニターの音を掻き消した。
「黙れ!」
思わず叫んでいた。
「犬神先生?」
第一助手の佐藤医師が困惑した表情で私を見る。「何か問題でも?」
私は激しく首を振り、マスクの下で溢れ出る汗を堪えた。「いや……何でもない。続けろ」
大動脈をクランプするために鉗子を手に取った。その時、幻覚はさらに悪化した。蓮の顔が朱里へと変貌したのだ。彼女は笑っていた。そして彼女が笑うたび、首の縫合が弾け飛び、黒い血が溢れ出してオペ台を飲み込んでいった。
「笑うなと言っているんだ!」
私は防御的な、乱暴な動きで持針器を突き出した。本来向けるべき場所ではなく、健康な心筋組織へと。
――グチャッ!
「先生! 何を!? 左心室です!」
佐藤が悲鳴に近い声を上げた。
返り血が私のフェイスシールドを汚した。私は現実へと引き戻された。私の常軌を逸した動きのせいで、患者が死にかけたのだ。奇跡的に、肉体の本能が思考を追い越した。戦慄を覚えるほどのトランス状態で、私は人外の速度でその裂傷を縫合した。だが、その縫い目は無残だった。犬神の美学などそこにはない。それは戦場のど真ん中で死体を繋ぎ合わせる死刑執行人のような、無骨で荒い縫合だった。
二時間後、オペは終了した。患者は一命を取り留めたが、「医神」としての私の名声には決定的な亀裂が入った。
「江戸さん」
廊下で佐藤に呼び止められた。彼の顔は疑念に満ちている。「今の縫合……あなたらしくありません。まるで何かを慌てて隠そうとしているような、雑な仕事でした。本当に大丈夫なんですか?」
「疲れているだけだ、佐藤。私に指図するな」
私は彼を突き放し、更衣室へと足早に向かった。
スクラブエリアに入り、自動水栓を起動させる。抗生剤入りの石鹸で手を洗い始めた。視線を落とすと、自分の手から赤い水が流れているのが見えた。手が清潔であることは分かっているのに。
顔を上げ、鏡を見た。
呼吸が喉に詰まった。
そこに映っていたのは、私ではなかった。湿り気を帯びた鏡の向こうに、私と同じ緑色の術衣を着た蓮が立っていた。顔面は蒼白で、髪にはまだ骨粉の残骸が付着している。今度の彼は笑っていなかった。冷徹な、絶対的な「法」の眼差しで私を凝視していた。
彼は冷たい手を上げ、血に濡れた茶色の紙を鏡の表面に押し当てた。
――逮捕状。
『時間切れだ、ドクター』
鏡の中の蓮の残像が囁いた。
私は拳で鏡を叩き割った。鏡面は千々に砕け散った。残像は消えたが、床に落ちた破片の一つひとつに宿るあの刑事の瞳が、今も私を監視し続けているのが分かった。
帰らなければならない。世界が完全に崩壊する前に、朱里を再び私の支配下に置かなければ。




