第六章:不完全な覚醒
#犬神医師の解剖学的愛着律 #サイコパス外科医 #禁断の愛 #メディカルホラー#医療グロ
アンモニアの臭いと焼けたカルシウムの残香が、いまだ室内の空気に重く沈んでいた。その中で、朱里がついに目を開けた。
私はベッドの脇に立ち、息を止める。溢れ出す涙か、恐怖の呻きか、あるいは処置が終わった後のいつもの困惑した表情を待っていた。だが、次に目にした光景は、数百の命を解剖してきたこの私――狂気の外科医ですら、総毛立つほどのものであった。
朱里の左目――彼女自身の瞳は、虚ろなままだった。しかし右目――先ほど移植した蓮の瞳が、不自然な速度で動き始めたのだ。
――スッ、スッ、スッ。
その目は、私を見てはいなかった。部屋の隅々を冷徹に走査していた。
「朱里……私の声が聞こえるかい?」
私は囁き、彼女の手に触れようとした。
彼女は手を引かなかったが、握り返すこともしなかった。首をわずかに右に傾ける。挿管チューブで荒れた喉から、ひどく嗄れた声が漏れ出す。
「……午前三時十四分」
彼女は呟いた。冷たく、平坦で、感情の欠片もない声。
「室温、十七・八度。湿度、四十二パーセント」
私は絶句した。それは朱里の喋り方ではない。現場に降り立ったプロフェッショナルが行う、状況観察のそれだ。
「朱里、兄さんだよ――」
「右の人差し指の爪の間に、結合組織の残骸が付着している」
彼女は私の言葉を遮った。新しい瞳が、私の手を鋭く射抜く。
「レンガ色、弾力性のある質感。それは私のものではない。隣の台の被検体のものね。透明なエプロンの飛沫パターンから推測するに、あなたは四十五度の角度で総頸動脈を切断した。……詰めが甘いわね、江戸さん」
江戸さん? 彼女は私を「兄様」とは呼ばなかった。
背筋に凍りつくような戦慄が走った。移植した蓮の脳断片は、単なる知能を与えただけではなかった。その脳は、朱里の認知機能そのものを乗っ取ったのだ。彼女は私を保護者とは見ていない。彼女は今、私を対象として『プロファイリング』している。
彼女の視線が点滴スタンドへと移った。
「プロポフォール、フェンタニル、そして……ベクロニウム? 運動機能を麻痺させながら、意識だけを鮮明に保つ。支配を維持するための、効率的な医学的拷問ね」
朱里は起き上がろうとした。新しい神経と古い筋肉の同調が不完全なため動きはぎこちなかったが、彼女はそれを成し遂げた。そして地階の鋼鉄の扉を凝視する。
「出口まで七メートル。生体認証と六桁の暗証番号によるロック。部屋の隅には監視カメラ、ホルマリン保管庫の下に死角あり」
彼女は早口で分析し、脱出口を探るように視線を動かし続ける。
「あなたのエプロンのポケットには十一号のメスが二本。今この瞬間、私があなたの気管を攻撃した場合、生存して脱出できる確率は十二パーセント。……低すぎるわね」
彼女は再び私を見つめた。片方は柔らかな茶色の瞳、もう片方は真実を渇望する刑事の鋭い瞳。その不揃いな眼差しは、天使が論理の悪魔に憑依されたかのような、凄惨な表情を作り出していた。
「なぜこんなことをしたの、江戸さん?」
彼女が問いかける。今度は微かに声が震えていたが、それは恐怖からではない。純粋な『嫌悪』だった。
「完璧な伴侶を創りたかったの? それとも、あなたは神を気取った孤独な殺人者に過ぎないという現実から、逃げたかっただけ?」
私は沈黙した。目覚めたばかりの私の最高傑作は、いかなるメスよりも鋭い精密さで、私の魂を解剖し始めていた。
「愛しているからだよ、朱里。君を愛しているから、やったんだ」
私は平静を装い、状況を支配しようとした。
朱里が笑った。それは妹の愛らしい微笑みなどではなかった。取り調べ室で容疑者を追い詰めた時に蓮が見せる、冷笑そのものだった。
「愛? いいえ。医学的に言えば、これは適応不全な神経生物学的執着だわ」
朱里はゆっくりとオペ台から足を下ろし、縫いたての傷口から冷たい床に血を滴らせた。
「そして、刑事としての私の結論……。自分の頭の中から『決定的な証拠』を見つけたわ。江戸さん、あなたは唯一の容疑者よ。そして、私はその物証」
その夜、私は致命的なミスを犯したことに気づいた。私は朱里を補完するために知能を与えたのではない。
最愛の者の肉体の中に、最悪の敵を招き入れてしまったのだ。




