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第ニ話 「夏夜に降る雨」

 ——数週間後。

 

 八月の国の王宮では、外交を兼ねた夜会が開かれていた。金色の光が、眩しいほど会場を照らしている。

南国の花々、甘い果実酒の香り。八月の国らしい、華やかな夜だった。


「緊張してるのか?」

 隣へ視線を向けるとリシェルは小さく瞬きをした。

「……少しだけ」

 

 今日のリシェルは、いつもと少し違った。淡い紫の髪は後ろでゆるく編み込まれ、白い首筋が静かに覗いている。

紫陽花色のドレスは、光を受けるたび淡く色を変えた。

胸元で揺れる小さな銀飾りが、かすかな光を映して瞬く。

 派手じゃないけど、……綺麗だ。

そう思った瞬間、自分で少し動揺する。

--いや、今のはなんでもない。


「別に食われたりはしない」

 誤魔化すみたいにそう言うと、リシェルは小さく頷いた。

「……はい」

 相変わらず声は小さかったけれど、その静かな声が妙に耳へ残る。

——駄目だ! 最近、こいつのことばかり考えている気がする。

「皇太子アルス·オーガスト殿下。そして六月の国第一王女、リシェル・ジューン姫殿下のご入場です」


 扉は開かれた。一斉に視線が集まった——その瞬間。

隣の細い肩が、ほんの少しだけ強張る。

「行くぞ」

 小さく声をかけると、リシェルは静かに頷いた。会場へ足を踏み入れる。

金色の光、華やかな音楽、絶えない笑い声。八月の国らしい、眩しい夜だった。

そんな中で、リシェルの紫陽花色だけが妙に静かに見える。

淡い紫の編み込まれた髪に光を受けるたび揺れる銀飾り、雨上がりみたいな色のドレス。なのに不思議と、誰より目を引いた。


「まあ……」

「あの方が六月の国の姫君?」

「本当に紫陽花みたいな色……」

 夜会のざわめきへ、小さな声が混ざる。

「綺麗……」

「でも随分静かな方ね」

「皇太子殿下が直々にエスコートされているのね」

 視線が集まる。


 リシェルは気付いているのかいないのか、静かに視線を伏せていた。けれど近くにいる俺には分かる。

少しだけ肩が強張っている。

……こういう場、苦手なんだろうな。


「皇太子殿下!」

 明るい声が響く。フレア・アルデバランが笑顔でこちらへ歩いてきた。


 フレア・アルデバラン。

伯爵家の令嬢で、俺の幼馴染みだ。明るくて、 華やかで、 社交界の中心に立つことを楽しめる女。

人懐っこいくせに妙に勘が鋭い! しかも遠慮がない。

昔から、面倒なほどよく喋る。

けれど不思議と嫌味にならないのは、多分あいつ自身が裏表なく笑うからだろう。

太陽みたいな女だ。


 ——だからこそ、雨みたいに静かなリシェルとは、まるで正反対だった。

フレアのドレスは、ハイビスカスのように咲き誇る南国の花みたいな色をしていた。


 赤だけじゃない。

橙や金まで溶け込んだ鮮やかな色彩が、歩くたび光を弾く。まるで、夕焼けそのものだ。


「本日はお会いできて嬉しいですわ」

 太陽みたいな笑顔。

明るくて、 社交的で、 誰とでも自然に話せる女。

——前の俺なら、こういう女へ自然に笑い返していたのかもしれない。

けれど今は、 隣の気配ばかり気になった。フレアの視線が、ふとリシェルへ向く。


 淡い紫の編み込まれた髪。雨みたいに静かな紫陽花色のドレス。華やかな会場の中で、そこだけ空気が違った。

 

「まあ……六月の国の姫君でいらっしゃいますわね」

 

 それから、フレアは優雅にドレスの裾を摘んだ。

「初めまして、リシェル・ジューン姫殿下。フレア・アルデバランと申します」

 赤いドレスが花みたいに揺れる。社交界らしい、美しい礼だった。リシェルは少し驚いたように瞬きをしてから、静かに頭を下げる。


「……リシェル・ジューンです」


 (あ~絶対固まる!)

そう思ったのだが。


「……光栄です」

 意外にもリシェルは静かに微笑んだ。


「“紫陽花姫”のお噂は伺っておりますわ」

 フレアがにこやかに笑う。リシェルは一瞬だけ困ったように視線を揺らした。

 (——ああ。多分、その呼び名はあまり好きじゃない。)


 そう思った次の瞬間。

「……恐れ入ります。ですが、本日はフレア様の方が、ずっと夏の花みたいで素敵です」

「まあ!」

 フレアが目を丸くする。

「お上手ですのね」

「……あまり、慣れてはいません」

 いつもの小さな声だったが、返答は完璧だった。


 正直——意外だ。

俺の時みたいに、もっと黙り込むかと思っていたのに。

思わず少しだけ感心する。

同時に、 こういう場に慣れていないのは俺の思い込みだったのかもしれない、と気付いた。


「フレア」

 俺が口を挟むと、フレアがぱちりと瞬きをする。

「今夜は随分目立ってるな」

「まあ、ありがとうございます」

 フレアはすぐに笑顔を向けてきた。空気が自然に切り替わり、隣でリシェルが小さく息を吐いたのが分かった。

 ……分かりやすい。

「そういえば殿下、後ほど一曲お願いできますか?」

「……ああ」

 一応頷く。けれど気付けば、隣へ視線が向いていた。

リシェルは静かに会場を見ている。


まるで、自分はこの場の人間じゃないみたいに。

——そんな顔をするな。

何故か、そう思った。


「そういえば殿下、あちらの方々へご挨拶は?」

 フレアが扇を揺らしながら笑う。

「まだだったな」

「では参りましょう?」

 ごく自然に腕を引かれるが、……断れる空気じゃない。

ふと隣を見る。リシェルは静かに立っていた。

「少し待ってろ」

「……はい」

リシェルは小さく頷いた。




 *****

 ◇

 アルスはフレアに連れられるように、人の輪へ消えていった。

 

 ——ふぅ。一人になると、少しだけ息が詰まる。

華やかな音楽、笑い声、金色の光。この場所は、やっぱり少し眩しすぎるわね。


「殿下、こちらへ」

「はいはい」

 少し離れた場所から、フレア様の明るい声が聞こえた。二人の方へ視線を向けると赤や金を溶かしたみたいなドレスが、光の中で揺れていた。

フレア様は楽しそうに笑いながら、自然にアルス殿下の隣へ立っている。殿下も、あの方と話している時はどこか慣れた空気だった。

 

 社交界に慣れた殿下、明るい会話、華やかな笑顔。

ああいう場所が、本当はよく似合う人なのだと思う。

 ……わたしとは違う。


「六月の国の姫君、本当に綺麗ね」

「ええ、まるで雨の妖精みたい」

「でも少し儚そう……」

 小さな囁き声が耳へ届く。きっと悪意はないのよね。

多分、純粋な感想なのだと思う。

けれど視線を向けられるのは、やっぱり少し落ち着かなかった。

「あの方が“紫陽花姫”……」

「アルス皇太子殿下が随分気にかけておられるとか」

「お似合いよね」

「夏と雨みたいで」


 少しだけ、喉が渇いて、人の少ない方へ視線を向ける。

 会場の端には果実水や果汁酒が並べられていた。

わたしはそっと人混みを避けながら歩き出す。

強い光、大きな音楽……少しだけ頭がぼんやりする。

そんなことを考えていると--。


「もしよろしければ、一曲お願いできますか?」

 不意に柔らかな声が降ってきた。

春風みたいに穏やかな青年が、優雅に礼をしていた。


「四月の国第一王子、リュカ・エイプリルと申します」

 差し出された手へ、わたしは小さく視線を落とす。

周囲の視線が集まっているのが分かった。

 

 ——断るのは失礼になるわね。

「……よろしくお願いいたします」

 そう答えると、リュカ殿下は柔らかく微笑んだ。

「ありがとうございます」

 そのまま、そっと手を取られる。驚くくらい自然な動きだった。強く引くわけじゃなく、離れない程度に、優しくエスコートされる。


「お疲れではありませんか?」

 歩幅を合わせながら、リュカ殿下が小さく尋ねる。

「少しだけ、お顔が青い」

「……大丈夫です」

「それなら良いのですが」

 声も穏やかだった。社交界に慣れている人なのだと分かる。ダンスホールへ向かう間も、周囲の令嬢達が小さく囁いていた。

何故か少しだけ、アルス殿下の姿を探してしまった。


「ご覧になって、四月の国のリュカ様よ」

「素敵ね……」

「相変わらずお優しいのね」

「去年も何人も令嬢をエスコートされていたでしょう?」

 リュカ殿下は慣れた様子で微笑む。春風みたいに自然な笑顔だった。



 *****

 ◇

「……で、殿下聞いておられます?」

「聞いてる」

フレアに適当に返す。正直、半分も頭へ入っていなかった。フレアは呆れたみたいにため息を吐く。

「絶対聞いてませんわね」

「聞いてるって言っただろ」

「では何のお話でした?」

「……知らん」

「もう」


 楽しそうに笑われる。社交界なんて昔からこんなものだ。愛想笑い、世辞、建前。適当に流していれば終わる。けれど今は妙に落ち着かなかった。

 

 リシェル……どこだ? 無意識に視線を巡らせた。

紫陽花色のドレスを探す。……いない。

「殿下?」

「リシェルは」

 自然に名前が出てしまい、フレアがぱちりと瞬きをする。

「あら」

「どこ行った」

「さあ?」

 面白そうに笑っている。——絶対気付いてるな、こいつ。小さく舌打ちした時だった。


 人混みの向こうに、淡い紫陽花色が揺れる。その隣には、柔らかな笑みを浮かべた男がいた。ちょっと待て!

 あれは--四月の国第一王子! リュカ・エイプリル。何度か夜会で顔を合わせたことがある。

 

 柔らかい物腰で、 誰とでも自然に会話を繋げる男だ。

女達に人気があるのも知っている。

リュカはそっとリシェルの手を取り、自然な動作でダンスホールへエスコートしていく。

 ちっ……随分慣れてるな。春風みたいに穏やかな笑顔で

女性を緊張させない距離感。社交界に慣れた王子。


 ——だから余計に、面白くなかった。気付けば眉を寄せていたらしい。

「殿下」

フレアが小さく笑う。

「顔」

「うるさい」

「怖いですわ」

「別に」

 けれど視線は、どうしても紫陽花色を追ってしまった。


 気付けばゆったりとした旋律が、夜会場へ流れ始めた。リュカは自然な動作でリシェルの腰へ手を添える。

リシェルも、小さく視線を伏せながらその手を取った。

まあ……普通だ。社交界ではよくある光景! 王族同士のダンスなんて、外交の一つに過ぎない。


 頭では分かっている。分かっているのに。——近い! 気安く触るな! 思わず眉を寄せた。

「殿下、本当に分かりやすいですわね」

 フレアが呆れたように笑う。

「何が」

「ご自覚ありませんの?」

「だから何の話だ」

 フレアは扇で口元を隠した。

「昔の殿下でしたら、ああいう場面を見ても何も気にされなかったでしょう?」

「……」


 確かにそうだ。誰が誰と踊ろうが興味なんてなかったし、社交界なんて、ただの仕事だった。

けれど今は違う。

紫陽花色のドレスが、他の男の隣で揺れるたび妙に落ち着かなかった。リュカが何かを囁くと、リシェルが小さく笑った。

 

 ——その瞬間。胸の奥がざわつく。

「……何で笑うんだ」

 思わず漏れた声に、フレアが吹き出した。

「殿下」

「何だ」

「昔は“六月なんて嫌いだ”と仰っていましたのに」

 フレアは楽しそうに笑う。

「随分お変わりになられましたこと」

「……は?」

「雨ばかりで鬱陶しい、髪は張り付く、湿気で最悪だと」

「言ったか?」

「ええ。何度も」

 全く覚えていないけれど、確かに言ったかもな。昔の俺は六月の国が嫌いだった。蒸し暑くて、 空は暗くて、 じめじめしていて。八月の国とは真逆の季節だ。


 ——なのに。今は視線が勝手に追ってしまう。

雨みたいに静かな、あの姫を。

「まあ」

 フレアは扇の向こうで、くすくす笑う。

「恋とは恐ろしいものですわね」

「違う。ニヤニヤするな」


 だがその瞬間、リュカがリシェルの手を引き、くるりと回った。紫陽花色のドレスが、花みたいに広がる。

リシェルは少し驚いたように目を丸くしたあと、小さく笑った。

 ——まただ。何であいつ、あんな顔するんだ。

面白くない……。理由なんて分からないのに。なんでこんなに苛立つ?

「殿下」

 フレアがそっと声を潜める。

「ちゃんと追いかけないと」

「……何をだ」

「取られてしまいますよ?」

「…………」

 思わず黙ると、フレアは楽しそうに笑った。

「リュカ殿下はお優しいですし、女性慣れもしておりますもの」

「知ってる」

「あら、でしたら尚更」

 扇で口元を隠しながら、フレアはわざとらしく肩を竦めた。

「ぼんやりしていると、春風に攫われてしまうかもしれませんわ」


 ——攫われる?

その言葉に、気付けばもう一度、 紫陽花色の姿を探していた。

 音楽がゆるやかに流れる。リュカは慣れた足取りでリシェルを導いていた。女性を不安にさせない距離と柔らかな声。時折、自然に零れる笑み。

——いちいち様になっているのが気に入らない。


「八月の国の夜会は───でしょう?」

 リュカは穏やかに何かを囁く。

「春の国とは、随分────」

「……はい。────ですが、とても綺麗だと思います」

 リシェルの声は聞き取れないものの、表情から見て穏やかな雰囲気だった。いつもの、警戒したような硬さが少ない。

 ……何だそれ。俺と話している時より、自然じゃないか。俺と話す時は、固まるくせに--。

無意識にグラスを持つ手へ力が入る。


「殿下、割らないでくださいませね?」

フレアが呆れたように言った。

「割らない」

 そう返したけれど、視線は外せなかった。リュカがまた何かを囁き、リシェルが小さく笑う。


「……随分楽しそうだな」

 気付けば、そんな言葉が漏れていた。

フレアが吹き出す。

「殿下」

「何だ」

「その顔のまま近付かれたら、姫君が怯えてしまいますわ」

「別に何もしない。悪かったな、怖い顔で」

「でしたら、もう少し優しいお顔をなさってくださいませ」

「うるさい」

 そう返した瞬間、やっと曲が終わる。リュカが優雅に礼をし、リシェルも静かに頭を下げる。

 ——そして。

リシェルの視線が、真っ直ぐこちらを向いた。


「殿下?」

 フレアが面白そうに瞬きをする。気付けば、もう歩き出していた。人混みを抜け、金色の光の向こう、 紫陽花色のドレスが揺れる。


「リュカ殿下」

 声を掛けると、リュカが柔らかく微笑んだ。

「これはアルス殿下」

「悪いが、借りる」

 自分でも驚くくらい即答だった。

「……え?」

 リシェルが小さく瞬きをする。俺はそのまま、細い手を取った。ひんやりしている。

「次、俺と」

「ああ、なるほど」

 リュカは少し目を丸くしたあと、すぐ穏やかに笑った。

「失礼いたしました」

 さらりと手を引く。余裕のある態度が、何となくまた気に入らない。

「では姫君、また後ほど」

 『後なんて来てたまるか』そう思っている間に、

リュカは優雅に礼をすると、そのまま人混みへ消えていった。残されたリシェルが、困ったようにこちらを見上げる。

「……アルス殿下?」

「踊るぞ」

「え?」

「嫌なのか」

「い、いえ……」

 明らかに戸惑っている。けれどその手を離す気には、何故かなれなかった。


 会場にはゆるやかな音楽が流れ、俺はそのまま、リシェルをダンスホールの中央へ連れていった。

「……よろしくお願いいたします」

 どこかまだ戸惑っている。俺は無言のまま、リシェルの手を取った。ひんやりと冷たい。

 ……緊張してるのか。

「力抜け」

「……はい」

 音楽に合わせて、一歩踏み出す。リシェルは思ったより上手く踊った。足運びも綺麗で、王女教育の一つなのだろう。

 

 けれど、——笑わない。さっきまで、 リュカと踊っていた時は笑っていた。小さくても、 確かに楽しそうに。

なのに今は、 真面目な顔でこちらを見上げている。

「……何だ」

「え?」

「何でそんな顔してる」

 リシェルが困ったように瞬きをする。

「そんな顔、とは……」

「さっきは笑ってただろ」

 言った瞬間、自分で少し後悔した。——何言ってるんだ俺は。ほら、目を丸くしている。多分、 本気で意味が分かっていない。

「……リュカ殿下が、お話上手でしたので」

「へえ」

 自分でも驚くくらい、胸の奥がざわつく。


「アルス殿下?」

 不思議そうに見上げられる。青空みたいな瞳--そんな顔されても困る。


「なら……早く、リュカ殿下のところへ行けばいい」

 口をついて出た瞬間、自分でも何を言っているのかと思った。

「……え?」

 リシェルが小さく目を見開く。その顔をまともに見ていられなくて、俺はぱっと手を離した。

紫陽花色のドレスが、小さく揺れる。


「アルス殿下、わたし——」


「別に」

 被せるように言って、背を向けた。こいつの前にいると、多分……困らせるようなことしか言えない。今は。


「……っ」

 

 後ろで、リシェルが何か言いかける気配がした。

けれど振り返らない。

八月の国らしい、金色の光、華やかな音楽、楽しそうな笑い声。

そんなもの全部が、今は妙に鬱陶しかった。



 *****

 ◇

 ——どうして、怒っているの?わたしは呆然と、その背中を見つめた。

金色の光の向こう。アルス殿下はそのまま人混みへ消えていく。


「…………」

 胸の奥が、少しだけ苦しかった。……何か失敗してしまったのだろうか。

リュカ殿下と踊ったから?でも、王族同士のダンスは外交の一つだ。失礼にならないよう、ちゃんと振る舞ったつもりだった。

 分からない。わたしは小さく視線を落とす。

さっきまで握られていた手が、まだ少し熱かった。


「……姫君?」


 柔らかな声が聞こえて、顔を上げると、少し離れた場所でリュカ殿下が心配そうにこちらを見ていた。

「お顔の色が優れませんね」

「……大丈夫です」

 そう答えたけれど、自分でも声が少し震えているのが分かった。リュカ殿下は静かに目を細める。

「失礼ですが、アルス殿下と何か?」

「…………」

 答えられない。わたし自身、分かっていないから。

「もし宜しければ、少し外の風へ当たりますか?」

 春風みたいに穏やかな声だった。

けれど。——今は。

「……ごめんなさい」

 わたしは小さく首を振る。

「少し、一人になりたいです」

 リュカ殿下は驚いたように瞬きをしたあと、すぐ優しく微笑んだ。

「分かりました」

 無理に引き止めない。その優しさが、少しだけありがたかった。


 わたしは静かに人混みを離れる。胸の奥が、ずっと落ち着かなかった。


 夜風が、そっと頬を撫でた。

バルコニーへ出ると、ようやく息ができる気がした。会場の中は明るすぎる。音も、人の声も、全部が眩しかった。

 わたしはそっと手すりへ触れる。夜空には、星が浮かんでいた。八月の国の夜空--雨の国より、ずっと高く見える。


「……何をしている」

 不意に低い声がして、振り返るとアルス殿下が立っていた。

「……アルス殿下」

 何故来たのだろう。さっきは、怒っていたのに。

アルス殿下は少しだけ眉を寄せる。

「顔色悪い」

「大丈夫です」

「そうは見えない」

 ぶっきらぼうな声。けれど、その視線はどこか落ち着かなさそうだった。

「なぜ……怒って、おられるのですか」

 思い切って聞くと、アルス殿下が僅かに目を細めた。

「別に」

 さっきと同じ答え。けれど別に、ではないことくらい分かる。

「わたし、何か失礼を——」


 「違う」

 

 被せるように言われ、わたしは目を瞬いた。アルス殿下は小さく舌打ちするみたいに息を吐く。

「……おまえが、あいつと楽しそうに笑ってるから」

「え……?」

「いや」

 そこで急に顔を逸らした。

「今のなし」

 ……なしと言われても、 意味が分からない。けれど、今は何故か胸の奥だけが、少し熱かった。

「……意味が、分かりません」

 正直にそう言うと、アルス殿下はますます顔をしかめた。

「だろうな」

「リュカ殿下とは、外交として踊っただけです」

「分かってる」

「では、何故……」

 問いかけたところで、言葉が止まる。アルス殿下が、こちらを見ていた。

金色の光が届かない夜の中で、その瞳だけが妙に熱を持って見える。

「……俺にも分からない」

 ぽつりと落ちた声は、小さかった。

「気付いたら、面白くなかった。笑ってるの見たら、何か……」

 そこで言葉が切れる。

アルス殿下は少しだけ苛立ったみたいに眉を寄せた。

「だから、今はおまえの前にいると調子狂う」


 ——調子が狂う。今日、何度も聞いた言葉だった。

わたしは静かに視線を伏せる。胸の奥が、少しだけ騒がしい。

「……ごめんなさい」

小さく謝ると、

「何でおまえが謝る」

 アルス殿下が即座に返した。

「悪いのは多分、俺だ」

 そう言って、困ったみたいに息を吐く。いつもの不機嫌そうな顔なのに、 今は何故か少しだけ余裕がなく見えた。

「…………」

 その時、ぽつり、と冷たいものが頬へ落ちる。

わたしは小さく目を瞬いた。


「……雨?」


夜空を見上げる。

星の間に、薄い雲が流れ込んでいた。

「……雨?」

「八月に?」

「珍しいわね」

「もしかして、“紫陽花姫”がいらっしゃるからかしら」


 誰かが冗談みたいに笑う。

けれど、 夜空から落ちる雫は少しずつ増えていった。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

梅雨の季節に、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

最近は八月でも雨が多いですが、この物語の中では、からっと晴れた“八月の国”を書きたいなと思っています。


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