第一話 「紫陽花色の来訪者」
「今日は、十年に一度の最悪な日だ……」
窓の外で、雨が降っていた。八月の国では珍しい、まとまった雨だ。普段なら人々は喜ぶのだろう。 “恵みの雨”だとか言って。だけど、俺は嫌いだった。
空を覆う雲も、 肌に張り付く湿った空気も、 太陽を隠して世界を冷やす、この天気も。
——六月の国みたいで。
「六月の国の姫君が、療養のため滞在されます」
そう聞かされた瞬間、俺は露骨に顔をしかめた。
「何でうちに来るんだよ」
「乾いた気候の方が、お身体に良いそうで……」
侍従兼側近のスピカが困ったように答える。面倒ごとの匂いしかしない。思い切りため息を吐くと、隣から呆れた声が飛んできた。
「殿下、顔に出ています」
「出してるんだよ」
「せめて隠してください」
幼い頃からの付き合いだ。 今さら取り繕う気もない。
六月の国の人間なんて、どうせ湿っぽくて、陰気で、すぐ倒れる。 まして姫君だ。
絶対、関わりたくない!
それなのに--。
俺の気持ちなどお構いなしに、城の大門は開かれた。
やがて姫を乗せた馬車の扉が開かれた。
最初に見えたのは、淡い紫色のドレスだった。 紫陽花みたいな色だ、とぼんやり思う。
続いて現れた少女を見て、俺は少しだけ言葉を失った。
白い肌、 淡い紫色の髪、 空色の瞳。
まるで雨の匂いが似合うみたいな姫だった。……いや、 顔だけならかなり綺麗だ。しかし、問題は中身である。
口元に笑顔を貼り付けながら、俺は形式通り言った。
「ようこそ、八月の国へ」
姫は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます、皇太子殿下」
雨音に溶けそうなくらい小さい声だった。
——終わりだった。
俺は数秒待つ。しかし、姫は静かに瞬きをするだけだ。
それきり、会話が途切れた。
え……終わり?
「……あの」
終わりなのか?
よその国から来て、こんなにも会話が続かないことなんて、はじめてだった。
……何だこの空気。
どうすればいいのか分からないまま、沈黙だけが落ちていく。
……いやいや。緊張しているだけだろ、たぶん。
愛想笑いを貼り付けたまま、俺は無理やり会話を続ける。
「その……長旅で疲れていないか?」
「はい」
——終わりだった。
その間にも、雨は静かに降り続いていた。
はらはらと零れる雨粒を見て、俺はようやく気付く。
——姫が、傘を差していない。
六月の国の姫——“紫陽花姫”。
雨の中に立つその姿は、妙に景色に馴染んで見えた。
「姫様!」
突然、後ろの侍女たちが慌てた声を上げた。
「お身体が冷えてしまいます!」
「早く傘を……!」
だが当の本人は、不思議そうに瞬きをするだけだった。
「……そんなに慌てなくても、少しなら大丈夫よ」
意味が分からない。
「あんた、療養に来たんだろ」
「……はい」
「なのに何で雨に濡れてんだよ」
姫はきょとんとした顔で空を見上げた。
「……雨、ですから」
「意味が分からない」
「……よく言われます」
……変な姫だ。
それが、俺の“紫陽花姫”への第一印象だった。
◇◇◇◇◇
雨音を背に、俺は執務室へ戻った。
「……想像以上に意味が分からない姫だったな」
扉を閉めるなり、スピカにそう零す。
「六月の国の方は、皆ああいう感じなのでは?」
「だとしたら最悪だな」
「ですが、水は必要です」
「……だろうな」
「この国では、雨は貴重です」
「分かってる」
「まとまった雨は降りませんからね」
……だから六月の国には逆らえない。
「療養期間だけだ」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
——その時は、本気でそう思っていた。
雨は、あの姫によく似合っていた。
紫陽花色のドレスも、 濡れた淡い髪も、 まるで最初から雨の中に咲くためにあるみたいで。
——なのに。
小さな咳が落ち、その細い肩が、かすかに揺れた。
……なるほど。療養という話は、本当らしい。
それなら——。
どうして雨に濡れる?
本当に、意味の分からない姫だった。
◇◇◇◇◇
次の日、昨日咳をする姫の姿が妙に頭に残っていたからなのか、執務の合間、気付けばあの姫の姿を探していた。
昨日の雨が嘘みたいに、今日は空が青い。
ギラギラと降り注ぐ日射しも、いつも通り心地良かった。
——なのに。
東屋にいるその姿を見つけた瞬間、俺は足を止める。
紫陽花姫は、静かに本を読んでいた。
姫のドレスは、昨日とは違っていた。
紫色から青色へ滲むような、淡いグラデーション。腰元に細いリボンが結ばれている。
昨日はたぶん違ったはず……。
——まるで別の花みたいだ。
気付けば、俺は東屋の前まで来ていた。
「お、おはようございます……」
姫は俺に気付くと、静かに本を閉じた。
それからドレスの裾を持ち上げ、丁寧に頭を下げる。
……妙に絵になる。
姫は少し遅れて頭を下げた。
「……おはよう」
また沈黙が落ちる。
どうしてこの姫は、挨拶だけで空気を止めるんだ。
「外に出ていいのか」
「はい……殿下」
「……色が違うな」
姫のドレスは、昨日とよく似た色合いだった。
けれど今日は、紫色だけではなく、淡い青が柔らかく混ざっている。
姫は自分の袖へ視線を落とした。
「紫陽花布です」
「……そういう布なのか?」
「はい」
--終わりだった。
小さな声は、夏風へ溶けるみたいに消えた。
その静けさが、妙におかしくて--俺は思わず笑ってしまう。
姫はきょとんとしたまま、こちらを見返していた。
空色の瞳に、青空と自分が映っていた。
妙に居心地が悪くなって、咳払いをする。
——今日は、咳をしていないみたいだ。
少しだけ安心した自分に気付きたくなくて、
「ゆっくり過ごせばいい」
そう言って、俺は背を向けた。
◇◇◇◇◇
数日後--。
今日も太陽が容赦なく照りつけていた。やっぱ、この国は、こういうスカッと晴れた濃い空がいい。
とはいえ、この暑さだ。
さすがに、あの姫も外には出ていないだろう。
——そう思ったのに。
いや、いるの!?
中庭を歩く姫を見つけた時、俺は思わず目を疑った。
姫は徹底して日陰だけを選んで歩いていた。
木陰から木陰へ、柱の影から影へ。
たまに陽の当たる場所があると、ほんの少し眉を寄せる。
……なんだあれ。
あまりにも真剣なので、つい吹き出した。
「……ふ」
気付けば、少し笑っていた。
そんな俺に気付いたのか、姫は振り返り、
「ごきげんよう、皇太子殿下……」
ふわりとドレスの裾を持ち、姫は小さく頭を下げた。
「ああ」
——終わりだった。
でも、もう慣れてきた気がする。まあ、こんなもんか。それより気になるのは、相変わらず姫が日陰ばかり歩いていることだ。
「……影ばっかりだな」
思わず呟く。
「そこまで駄目なら、部屋で休んでいればいいのに」
「ですが--今日は雲があります」
ほんの少しだけ、姫の声が柔らかかった。
……雲があるだけで、そんなに嬉しいのか?
「晴れてるだろ」
「今日は雲があります」
「いや、あるけど」
「完全な晴天ではありません」
……何がそんなに重要なんだ。
◇◇◇◇◇
次の日も、姫は相変わらず、徹底して日陰ばかりを歩いていた。柱の影から木陰へ わずかでも陽の当たる場所は避ける。
なのに時折、不思議なことをする。
木陰からそっと手だけを伸ばし、降り注ぐ光を手のひらいっぱいに受ける。まるで、雨粒を受け止めるみたいに。俺はなんとなく空を見上げた。違う……雨じゃない。
陽射しへ触れるその横顔は、どこか泣きそうで。
それなのに、 少しだけ嬉しそうにも見えた。
「……そんなに珍しいのか?」
姫はゆっくり瞬きをする。
「陽射しが、ですか?」
「八月の国の夏が」
姫は少し考えるように空を見た。木々の隙間から零れる光が、淡い紫の髪へ落ちる。
「……綺麗、です。でも、少し怖い」
その言葉に、俺はなぜか返事ができなかった。
◇◇◇◇◇
--明くる日。東屋に、“紫陽花姫”の姿はなかった。
木陰にも、 回廊にも、 いつもなら見かける淡い紫のドレスが見当たらない。
「……姫は?」
侍女は一瞬だけ困ったように視線を伏せた。
「本日は、お部屋で休まれております」
——それから数日。
姫は、とうとう部屋から出てこなくなった。姫が部屋から出てこなくなって、もう三日が過ぎている。
今日も八月の国の空は晴れている。雨の気配など、どこにもない。
——さすがに気になるだろ。
扉をノックすると、侍女が静かに頭を下げる。
「姫様はお休み中で……」
「少しだけ顔を見る」
「姫様、皇太子殿下がお見えです」
侍女の返事を待たず、半ば強引にそう言って部屋へ入ると、姫は窓際のベッドへ横になっていた。
俺に気付くと、ゆっくり身体を起こそうとする。
「おい、無理するな」
「……ごきげんよう、皇太子殿下」
それでも、紫陽花姫はきちんと頭を下げる。
顔が赤いのは熱のせいか?
——それとも。
「風邪か?」
「……少し、乾いてしまって」
「は?」
意味は分からないけれど、苦しそうなのだけは分かった。顔が赤い。
晴れ続きで体調を崩したとは聞いていたが、思った以上だった。
「熱でもあるんじゃないか?」
「……だいじょう——」
言い終わる前に、気付けば俺は姫の額へ手を伸ばしていた。
「……っ」
触れた瞬間、姫の肩が小さく跳ねる。
……熱い。
「あるじゃないか」
「…………」
姫は何故か黙り込んだ。
いや、待て。顔、さっきより赤くなってないか?
「……殿下」
「何だ」
「近いです」
「今さらか?」
以前なら好きだったはずの空を、俺は無言で見上げる。——少しくらい、降ればいいのに。
「殿下」
部屋を出た瞬間、スピカが深いため息を吐いた。
「何だ」
「何だ、ではありません」
呆れた声だった。
「未婚の姫君の私室へ、あんな勢いで入る皇太子がいますか」
「……緊急事態だった」
「ただのお風邪です」
「晴れ続きで弱ってるんだろ」
「なお悪いです」
執務室へ戻ると、気付けばまた、スピカへ姫の話をしていた。
「随分お気にかけておられるようで」
「誤解だ」
「毎日話題にされていますが」
「変わった姫だからだ」
「はいはい」
「そんなにご心配なら、日傘でも贈ればいいでしょう」
「……は?」
「姫君、陽射しが苦手そうですし」
スピカは楽しそうに笑っている。
「似合うと思いますよ。日傘」
スピカは面白がるみたいに笑った。
「……何で俺がそんなこと」
「毎日姫君の話をしている方の台詞とは思えませんね」
「してない」
「しています」
俺は机へ頬杖をつきながら、深いため息を吐いた。
しかし、……日傘、か。
八月の国では珍しくもない。貴族の令嬢なら、陽射し避けに普通に使っている。
けれど、あの姫には妙に似合いそうだった。
淡い紫陽花色のドレス、白い肌。木陰ばかり選んで歩く姿。
——いや、だから何で俺が考えてるんだ。
「殿下、顔に出ていますよ」
「うるさい」
スピカはとうとう吹き出した。
「贈られるんですね」
「まだ決めてない」
「選ぶなら白ですか? 薄紫ですか?」
「誰が選ぶと言った」
「でも、姫君はきっと喜ばれますよ」
その言葉に、俺は少しだけ黙る。……喜ぶって?
あの無表情な姫が? 正直、まったく想像できなかった。けれど。
「……晴れの日も、少しは外へ出やすくなるか」
小さく呟くと、スピカはにやりと笑う。
「それを世間では“心配している”と言うんですよ、殿下」
「違う」
即座に否定した。……多分。
◇◇◇◇◇
数日後--。
俺は城下へ来ていた。
「……で、何故こうなった」
「日傘を贈るのでしょう?」
隣で側近が涼しい顔をしている。
「まだ決めたわけじゃない」
「では帰りますか?」
「……いや」
「ですよね」
にやにやしている。なんだその顔! 正直、一発殴りたい。
俺達が訪れたのは、王家御用達の老舗だった。硝子張りの大きな窓。白を基調にした静かな店内には、布製品や装飾品が並べられている。
日傘も、その一つだった。
「いらっしゃいませ、殿下」
店主が恭しく頭を下げる。
「本日はどのような品を?」
「……日傘を」
そう答えた瞬間、スピカが横で肩を震わせた。
「笑うな」
「いえ別に」
絶対笑ってる! 店主はさすが王家御用達というべきか、余計な詮索をしない。
「贈り物でしょうか?」
店主が口を開く。
「……まあ」
「恐れ入りますが」
店主は並べた日傘へ静かに視線を落とした。
「贈られる方は、どのようなお方でしょう?」
「……どんな?」
「雰囲気やお好みが分かれば、よりお似合いの品をご用意できますので」
なるほど、思わず黙る。——どんな女か? それはあれだ。雨みたいに静かで、すぐ咳をして、日陰ばかり歩く。
なのに時々、 陽射しへ触れたそうな顔をする。
「……雨が似合う」
ボソリと呟くと、店主が優しく微笑んだ。
俺がそう答えると、店主は少し考えるように目を細めた。
「左様でございますか」
それから静かに奥へ下がる。数分後、店主が一本の日傘を手に戻る。
「でしたらこちらを」
持ってきた傘に一瞬、言葉を失う。
——何で。こんなにも、あの姫みたいなんだ。
「雨の日にも、晴れの日にも映える色でございます」
店主は穏やかに微笑んだ。
「きっと、お似合いになるかと」
広げられたのは、白い日傘だった。布の縁へ、淡い銀糸の刺繍が入っている。
派手ではないけれど、光を受けると静かに模様が浮かび上がった。
——雨みたいだ、ふと、そう思う。
「……こちらも人気ですよ」
次に広げられたのは、淡い紫色の日傘だった。
紫陽花みたいな色合い。
俺は無意識に、あの姫を思い浮かべる。木陰の中で空を見上げる姿、小さな咳、陽射しへ伸ばされた白い指先。
「……殿下?」
スピカの声で我に返った。
「何でもない」
「随分悩まれていますね」
「うるさい」
店主は静かに微笑んでいる。……何なんだこの空気は。
「こちらなど、涼やかで姫君にもお似合いかと」
店主が広げたのは、白から薄青へ色が移ろうフリルの日傘だった。夏空へ滲む雨雲みたいな色。真っ白だった布は、上へ向かうほど淡い青へ変わっていく。
まるで、夏空へ溶ける雨みたいな色だった。
その瞬間、何故か、姫の青空みたいな瞳が浮かんだ。
「——これにする」
夏空へ滲む雨雲みたいな、不思議な色合い。
「かしこまりました」
店主は丁寧に日傘を受け取る。
「柄の部分へ名前を刻むこともできますが、いかがいたしましょう」
「名前?」
「贈り物でしたら、記念になりますので」
俺は何となく日傘へ視線を落とした。……名前か、そこで初めて気付く。
俺は、あの姫の正式な名前を知らなかった。
「…………」
「殿下?」
隣を見ると、まだスピカが完全に面白がっていた。
「まさか知らなかったんですか?」
「うるさい」
「毎日のように姫君の話をしておいて?」
「してない」
「しています」
即答だった。
スピカは笑いを堪えるみたいに咳払いをする。
「六月の国第一王女、リシェル・ジューン様でございます」
「……リシェル」
小さく口にすると、 不思議とその名前は雨音みたいに耳へ残った。
「刻まれますか?」
店主が静かに尋ねてくるので、俺は少しだけ迷ってから頷いた。
「……頼む」
「かしこまりました」
店主が日傘を預かって奥へ下がる。
その背中を見送りながら、スピカが穏やかに笑う。
「随分大切そうですね」
「ただの贈り物だ」
「はいはい」
……何だその顔は。俺は小さくため息を吐きながら、窓の外を見る。今日も八月の国は晴れていた。
——あの姫は今、どうしているのだろうか。
◇◇◇◇◇
「姫様のご様子が優れないようで」
執務中、スピカがそんなことを言い出した。
「……晴れ続きだからな」
窓の外を見ると、今日も八月の国らしい快晴だった。
雨の気配など、どこにも感じられない。
スピカは少し考えるように口を開く。
「でしたら、水庭などいかがでしょう」
「水庭?」
「北棟の奥にございます。昔、殿下もよく遊ばれていた」
……ああ。そういえば、そんな場所もあったか。
王宮の奥にある、小さな中庭。
水の貴重な八月の国では珍しい、小さな噴水庭園だ。
「湿度も高いですし、姫様には合うかもしれません」
「あんな場所、まだ使ってたのか」
「普段は止めていますが」
水の貴重な国だ。常に噴水を動かしているわけではない。
「昼だけ流させますか?」
「…………」
少し考えてから、俺は立ち上がった。
「殿下?」
「案内する」
スピカが、またにやにやし始める。
「何だその顔は」
「いえ別に……姫様がいらっしゃる前は、あんなにお嫌そうにしていらしたのに、と」
絶対面白がってる。
姫の部屋を訪ねると、侍女が静かに頭を下げた。
「姫様、皇太子殿下がお見えです」
「……どうぞ」
小さな声が返る。部屋へ入ると、姫は窓辺に座っていた。俺に気付くと、リシェルはゆっくり立ち上がろうとする。
「おい、無理するな」
「……ごきげんよう、皇太子殿下」
それでも姫は、きちんとドレスの裾を持って頭を下げた。顔色は少し戻っているけれど、やっぱりどこか弱々しい。
「だから立つなって」
「……申し訳ありません」
「謝るな。それより、歩けるなら外へ出ないか」
「……?」
姫がゆっくり瞬きをした。
「少しは涼しい場所を知ってる」
数秒沈黙したあと、
「……はい」
姫は小さく頷いた。
けれど、ふと違和感を覚える。ドレスの裾が茶色く変色していた。乾いているのに弱った花みたいだ。
北棟の奥にある水庭は、静かな場所だった。
白い石造りの噴水から、水が絶えず流れ落ちている。
木々が陽射しを遮り、空気は少しだけひんやりしていた。
姫は足を止め、噴水を見た。青空みたいな瞳をキラキラと輝かせて。
「……雨の音みたい」
小さな呟きだった。
俺は思わず噴水を見る。ただの水音だ……けれど姫には、そう聞こえるらしい。
「気に入ったなら使えばいい」
そう言うと、姫はそっと噴水へ近付いた。
白い指先を水へ浸した瞬間。——ふわり、とその表情が少しだけ柔らかくなる。
「……冷たい」
本当に嬉しそうな声だった。
水面へ触れたまま、姫は静かに目を細める。
その顔を見た瞬間、胸が、妙にざわついた。
嬉しそうだったよな。本当に、少しだけ。
けれど今まで見たどんな表情より、ずっと目が離せない。
「……そんなに気に入ったのか?」
俺が聞くと、姫は噴水を見つめたまま小さく頷いた。
「六月の国に、少し似ています」
「これが?」
「……はい」
水音へ耳を澄ませる横顔は、どこか安心したみたいに見える。その姿を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ。
——また連れて来てもいいかもしれない。そんなことを思った自分に、少し驚く。
「……なあ」
「はい?」
姫がゆっくりこちらを見上げる。
「そのドレス」
「……?」
「裾の色、変わるんだな」
数秒、沈黙が落ちる。
リシェルはそっと自分の裾へ視線を落とした。
「……気付いて?」
「嫌でも目に入る」
正直に言うと、紫陽花姫--いや、リシェルは少し困ったように目を伏せる。
「紫陽花布なので」
「どうして変わる?」
「湿度や体調で、少し色が変わります」
俺は思わずドレスを見る。つまり。
「……じゃあ、その色は」
リシェルは少しだけ迷うように唇を閉じた。それから、小さく笑う。
「少し、弱っています」
まるで他人事みたいな言い方だった。
「笑い事じゃないだろ」
「でも、ここへ連れて来て下さり少し楽になりました」
そう言って、リシェルはまた水へ触れる。
白い指先を流れる雫を見ながら、 俺はなぜか胸の奥が落ち着かなかった。
「水が多すぎても駄目で、陽射しが強すぎても弱るのか」
何だそれ、と思う。——まるで、本当に紫陽花みたいだ。
「面倒な体質だな」
呆れ半分で言うと、リシェルは少しだけ首を傾げた。
「……そうでしょうか?」
「そうだろ」
俺なら絶対生きていけない。
「殿下?」
気付けば、姫がこちらを見上げていた。
青空みたいな瞳が、真っ直ぐ俺を映している。
……駄目だ。
その目で見られると、妙に調子が狂う。




