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逃げるは恥だが追えはしない①

 車らしき振動音。人々の微かな話し声。何を話しているかは分からない。ただ音だけが聞こえる。遠い。分厚い石の壁。通れない壁。


 優祈美菜は、ただひたすら耳を澄ませていた。巫女だから聴力は鋭いといっても、この分厚い天井の向こうは分からないに等しい。


 自らが着ているのは巫女服。追われる者の象徴。


 離れた友。今やどうなっているかも分からない。こうして自分が寝転んでいる間にも、ひどい追われ方をしているかもしれない。


 しかし、出るわけにはいかない。自分だけは、生き残らなければならない。


「うぅ……ぐすっ、センチメンタルになっちゃってるよう……」


 目を擦る。純白の袖に、濃い色の染みが出来た。薬酒を飲んでも、この寂しさだけは癒せない。


「おにーさん、早く帰ってきてよぅ……あっ今のゴキブリ?!」


 言葉を止める。息を止める。部屋の壁に「なにか」がいる。


 「なにか」は、巨大な眼だった。複眼だった。びっしりと詰まった神経の束。薄い殻で覆われ、そこから節足の足が生えまくり、


 ゴキブリどころか、


「謎生物だぁぁぁぁぁぁ?!?!?!?」


 大声を上げ、ダッシュ。身近な布、つまり巫女服の上衣をひっつかみ、虫に向かって振る。とにかく振る。


「うわあああああどっか行けこの虫虫なのとにかく去れ去れ去れええええええ!!!!」


「何してる」


 聞きたかった声。ぶわっと涙が噴き出した。9割心細さ、2割混乱である。


「おにーさんおにーさんおにーさんムシが寂しかったんだよぅー!!」


 わけの分からなくなっている美菜の声に。


「良かったな」


「どこがー!?」


 適当に返された。


 ◆


「ムシがいたんだよそれもでっかなこわくない?! めちゃくちゃこわかったよー!」


「……お前、帰らないのか」


 訴えを無視すると、巫女は諦めたのか急に大人しくなった。


「言ったでしょ。儀式の途中で出てきたって。追われてるのよ」


「当たり前のように居るな」


「だって、心を落ち着かせる場所がここしかなくてー! ここなら汚すぎて、神兵も火急の用でしか来ないでしょ?」


 いっそ神兵に突き出してやろうか。


「アレは、なんなんだ」


「アレ? 薬酒缶のこと?」


「違ぇよ。あの黒い線みたいな奴だ」


「あぁ、アレね」


 巫女はポテチの袋を開けた。油のぎとついた香りが広がる。美菜は何事もなく袋に手を突っ込むと、ドドメ色のスナックを口に放り込む。


「ひゃれは、神。通称ニューゴットよ」


「……神」


「上層の怪しい組織が、秘密裏に創り出している人工の神。わたしたち巫女は、元々はそれを倒すために集められたの」


「お前、生贄じゃなかったのか」


「生贄みたいなもんだよ、実質。生きて帰れるかの保証はないし」


 簡潔な答えが返ってきた。


「上層じゃ、あんなのがうようよしてるんだな」


「一ヶ月に二回ペースでね! もうマジ大変! テスト勉強どころか趣味サーまでボロンボロンだし! えいっえいっえいっ!」


 思い出したのか、手足をジタバタさせる。更に思い出したのか、虚空を下駄で蹴り始めた。大丈夫かこいつ。

「大変だな。……俺ももらう」


 敏明もスナック菓子を一口。食感だけはサックリとしている。後に残るのは、雑味の多い脂肪の味だ。


「で! 最後に受けた儀式が、巫女と創世神の融合! すんごいパワーアップするらしいけど、受けたら死んじゃう! それじゃ意味ねーっつのー!!!」


 天井に向かって咆哮した。うるさいことこの上ないが、気持ちは分かる。


 そこでパワーが尽きたらしい。一転、彼女はしゅんとして脱力した。肩がきれいなほど下がる。


「……そんで、その前の晩、友達とお酒を飲んで。ハマって。そこからお酒飲みとしての人生が始まったの」


 意外と最近だった。


「……逃げ出すことにしたんだな」


「逃避は恥じゃないでしょ。人間は生きるための存在。つまり、生きることが何よりも優先する命題なの。創世教の人たちは、そこんとこ破ってると思うわ。だから逃げたの」


 ……逃げた後の人々はどうなるんだと聞きたくなったが、やめた。そこんとこ詳しく究明しても、敏明にはどうしようもない。上層に上がる手段などない。人間と神の融合までしてのける上層なら、なんとかするだろう。


 だが、どことなく理不尽な感じはする。こいつは逃げられた。しかし、逃げることもできない人間はどうなるのか。


 靄は晴れない。スナックをまとめて口に放り込む。苦みが広がる。無理矢理に飲み下した。喉に引っかかり、咳き込んだ。

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