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序章:斑目敏明の場合③

「でやぁぁぁぁ!」


 先の巫女だ。白い衣は裾が破れているが、見間違うはずがない。そして見間違いだと思いたい。同一人物とは思えないほどの凜々しさで、黒い……


「……『あいつ』……!」


 黒い。ただ黒い。夜に映る影。空間が生命を与えられ、移動している。


 手が伸びている。動いている。蠢いている。だから生きている。


 カビの根のように、四方へ伸びている。巫女の拳を受けて尚、手の一本が、こちらへ。


 真っ直ぐ、真っ直ぐ。定規で引いた線のようだ。敏明の意志など解せず、機械のように、数式のように、法則のように、こちらへ。


「……っ」


 寒気を覚え、立ち去ろうとして、背後に壁があることに気付く。


 血の気が引いた。ここに壁は無かった。たった、ほんの三秒前までは。


 「それ」が創り出したのだ。この世の法則などない、一瞬より速い速度で。


 線は伸びてくる。先端が開く。花のように、刃のように細く鋭く。


 巫女に目を遣る。今はただ、彼女の勝利を祈るしかない。


 一際高く飛び上がると、拳を高く掲げ、なにやら力を溜める。桜色の光が、右の拳に集まっていく。そして黒い影へと叩きつける。


「神に! 勢いよく! ぱんぐふぉあっ!」


「あ、なんか吐いて吹っ飛んだ」


 だが、直前に線が突き出た。思わず解説が口に出るほどのぶっ飛びっぷりだった。すがすがしい負けっぷりだった。壁が凹むほどの衝撃で叩きつけられ、白い服が汚れていく。


 敏明は、腰に手を伸ばした。やりたくない。やりたくないが、ここまで追い詰められている。


 もうKOされたかと思った酒飲みだったが、それでも震える足で立ち上がった。カビとカビとあとよく分からないもので出来た、よく分からない溜まりに、足を踏み出す。震える。踏み締める。


 黒いものが、再び手を伸ばす。巫女は立ち上がるだけで精一杯のようだ。睨みつけたまま、動く気配はない。

 短く息を吐く。ベルトに挿していたナイフを取り出す。刀身に触れる。冷たい。冷えた鋼鉄。……まだ、錆びていない。


 力を込め、投擲する。この辺りは忘れていない。忘れていなかった。


 直線が折れる。砕ける。泡となる。ナイフがアスファルトに落ちた硬い音。自分を割り折ったナイフに、黒いものが視線を寄越す。


 巫女は振り向く。その顔は、驚愕に満ちていた。


「! あなた、帰ってカビを孵化させてんじゃ……ふぎゃあ!」


 彼女に駆け寄ると、足をかける。体勢を崩した体を受け止める。赤い髪の上を、影が通り過ぎていった。赤い毛が数本、空中に散る。


「うわ……」


「ピンチだったな」


 間近で見る女の顔は、諸々なもので汚れていた。


 敏明は呟いた。


「よく分からないが、後でビールを寄越せ。俺も飲んでみたい」


「! 分かったわ! あとビールじゃなくて神酒ね!」


 巫女は頷くと、敏明から離れた。


「お兄さん、ひょっとして神殿の人? あれのことは知ってる?」


「知らない」


「知らないのに出てきたの!?」


「義憤だよ、義憤」


 ベランダの上に、祭事用の電飾がある。白いコードが、蛇のように走っている。


「お前、あのコード、白いコード。取ってきてくれ」


「いいけど、お兄さんは大丈夫なの?」


「近づいたらお前、殴られるだろ」


「よ、余計なお世話よ!」


 唇を尖らせるが、素直にコードへ走って行く。その間に敏明は影を滑り、相打ちさせ、絡ませる。


「お兄さん! 取れたよ!」


「でかした」


 投げられたコードを、影の首辺りに巻き付ける。蛇のように細くなるほど絡まっていく。しかし、それで動きを止めるには至らない。隙間から影を出し、こねて回し、新しい弾を生み出していく。


「! もう一撃来るわ!」


「分かってる」


 しかし、そんなのはよくあることだ。一撃必殺、なんてものはない。二撃、三撃と繰り返し、ようやく敵う手が見える。


 引っ張ると、コードの先端を地下電力にブチ混んだ。創世を奉る電飾に、次々と青い光が走る。やがて一つの炎となり、影を覆い尽くす。手が、燃えすぎた炭のように、先端から崩れていく。赤い光に照らされ、煙だけが大気の中へ消えていく。


 完全に燃え尽きると、炎は夢のようにかき消えた。


 誰かが聞きつけたのか、サイレンの音が響いてくる。


「勝ったわ! サンキューお兄さん!」


「……」


 思い切り抱き着かれる。思ったより存在感のある胴が触れる。顔が熱くなる。……なんでだ、こいつはトンチキ巫女だぞ。


「それじゃ、かんぱいね! 勝利の杯っ!」


「帰ったら、な」


 サイレンが響く。足音が響いてくる。久し振りに、肩を竦めた。



 何年振りのアルコールだろう。


 懐かしく、新しい味わい。敏明の体に水のように染み渡り、脳をヒートアップさせ。


 胃が潰れた。


「だ、大丈夫?」


「……だ、……だ……」


 ここで大ダメージを受けるとは思わなかった。これはおひさ、中まで黴びてた缶詰を食べた以来である。大丈夫と言いたいが、それよりも胃の軋みが脳にブチ込まれる。さよなら久しぶりのビール。こんにちは新たな染み……やだなぁ。


「ホント、絵に書いたような下戸っぷりね!」


 お前も胃が潰れろ。


 一人爆笑する巫女に、殺意の籠もった視線を向ける。


「……お前も大丈夫なのか? 腹に一撃食らってたろ」


「ふふっ、それだけは大丈夫」


 巫女はドヤっとした。


 敏明はイラっとした。


「なぜ腹で受けるか! それはお腹がいちばん柔らかいから! 大事ってことは、つまり神が最も守ってくれる防御力さいきょうの!」


「……人体図鑑を見ろ」


 頭が痛くなってきた。ガンガンに痛い。こいつ、良いところの出だろうに、人体の構造を知らないのだろうか。


 だがここに人体図鑑などはあるはずもない。ひとしきり胃が再生したところで、巫女の腹を小突く。


「にゃっ! これがスキンシップべにゃ」


 二度、三度と小突く。彼女は腹を抱え、苦笑いを浮かべる。


「な? 人間の腹は最も重要な場所だ。そんな場所で拳なんざ受けるんじゃねぇ」


「分かったわ……こんどからデコで受けるわいたぁ!?」


「避・け・る・ことを覚えろ」

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