序章:斑目敏明の場合②
「これ証拠にしてよ」
手のひらほどの大きさの、白地に金糸の刺繍がされた紋章。見たことのない模様……ウジャなんたら神とやらの印なのだろう。
「って、今気付いたけどここやばくない? 壁カビ生えてない? なんであなた掃除しないの?」
「掃除して、意味があると思うか?」
「……ひとはまえむきにいきるべきだよ!」
「棒読み」
「この机も……うっわカビ感! カビ臭!」
「お前は俗世に染まりすぎだ」
「いうなー! 薬膳酒が美味いだけのただの一般人よ!」
「巫女の仕事はどうした」
「ぐすっ……ほんとうなら、わたしはふつうの人で……なのに、巫女に抜粋されて苦行アンド苦行の生贄……巫女になれって言われたのも適正が最大だったから……断じて創世教の祭壇からつまみ食いしたんじゃないわ……」
「で?」
「で、神歌の儀が嫌で逃げてきたのよ。周りには囲まれていたけれど、そんなの拳一発で十分だったわ」
そんなことは聞いていない。敏明としては、いい加減話を打ち切りたい「で?」だったのだが、こいつには通じないらしい。いい加減無視し、今度は寝る作業に戻る。
「この服は儀式のままだから動きにくいけど、どうってことはないわね。スカート部分を捨てればワンピースくらいの長さになるんだから。上半身は暑いけど、その代わりに涼しいったらないわ!」
えっ。
思わず目を見開いた。
よく見れば、香木のような香りが……あぁ、儀式から逃げてきたんだっけ。ならば香は焚いているだろう。とりあえず落ち着け敏明。
よく見れば、外套から白い足が覗いている。外套は長いため、膝下まで隠れている。そのため気付かなかったが、いや白い足が衣の白さに混ざって、履いているのは短い足袋だけ……いや、とりあえず落ち着け敏明。
よく見れば、彼女は白い着物のような服を着ていた。余すこと無く金糸の刺繍がされ、こんな場所には不釣り合いどころか、一周回って自称通りの神聖な雰囲気すら醸し出している。外套も白。捨てたと豪語するスカート(部分)も恐らく白……。
顔面に平手を打って、なんとか落ち着いた。
「俺は何をすればいいんだ。お前を祭壇まで送り返せば良いのか?」
本音を言えばここで黴びていたいが、このままこの近辺に放り出せば、女は間違いなく喰われてしまう。そうなれば、再び逃げ場に選ぶのはこの部屋だ。
「違うわよーっ! ただ……ただ、逃げ場を確保してもらいたかっただけ……だけ……今あなたヒマ!?」
「思いつくな」
「ヒマよね!? どうみてもヒマだものねこの生活感のない空間に生活感のない格好に全身から漂うカビ感! お願いわたしのガードをしてウジャムンガ神を復活させあっ叩き出された-!?」
溜息を吐く。何故、高級志向の女はこんなにあっさりと人間を使おうとするのだろう。理解できない。というか今回これっきりで関わりたくない。
なけなしの武器を取る。錆びたナイフ。腰に下げる。こんなのでも護身用にはなるだろう。 扉を開くと、
「あっ、気が変わった?」
また酒を飲んでいた。
「……はぁ」
今世紀最大の溜息を吐くと、敏明は巫女の腕を掴んだ。久しく触れていない、絹の滑らかさ。なけなしの心が悼むほどの柔らかさ。
「やったわ! これでウジャムンガ様のご復活ができるのね! 見ていて下さいウジャムンガ様、必ずやこの男を護衛にして、この美菜やり遂げてみせますっ!」
敏明は布を探した。
あったら詰め込みたい。減らず口の中に。
「ところでウジャムンナ神って何だ。お前の神とは違うんだろ」
敏明は、巫女の着物に目を遣る。大きな紋様が描かれていた。先ほどの紋章とは違う。木の枝に蛇が絡みついた、創世教の紋様だ。
家無し暮らしを満喫()する敏明でも、さすがにそれは知っている。月一回、大喝采が生まれているのを知っている。家無しの者は誰も信じてはいないが。
「わたしの神はウジャムンガ神よ。あんなハゲ面チョビヒゲのおっさんじゃないわ」
ひどい言い様である。
「さっきの紋章か」
「そう! よくぞ聞いてくれたわ! あれこそがウジャムンガ神の紋章! 巫女の証! ウジャムンガ神の巫女と名乗る女の人が、30000円で売ってくれたわ!」
「お前ぼったくられてるぞ」
たぶん。
「確かにわたしは創世教の巫女にされそうだったけど、信仰は自由よ。ところでお酒飲んでいい?」
「どんだけ酒飲みなんだ、お前」
そろそろ口が疲れてきた。
「ここから先はカビがひどい。黙らないと死ぬぞ」
「は、はぁい……」
適当な嘘を吐く。本当に彼女は黙った。
後は湿気と、誰かの持つ温かさだけ。なんで青春してるんだ俺。苛立ちを面倒事の面倒さで蓋をしつつ、角を曲がる。
「さ、ここまでだ。あとはどこにでも行け」
「えっ!? 生け贄になってくれるんじゃないの!?」
「ここまでだ。俺は……やることがある」
「あんなにヒマそうだったのに!?」
図星すぎるが、敏明には止まる理由はない。女の腕を放し、元の場所へと戻っていった。
いくら黴びていたくても、食べなければ生きていけない。食べるためには金が必要、仕事からは逃れられない。
……特権か何かで仕事のない職業につけないだろうか。
飽きた空想を辞め、仕事と言うのもおこがましい仕事に出る。適当な鉄屑を集め、鉄職人の元まで持って行く。集めるのはわずか。受け取るのもわずか。……説明するのもいやだ。
道路の石を数えながら歩く。帰ればカビ。どこまでも沈んだ日々。
つんざくような悲鳴が響いた。軽く顔を上げる。またどこかの誰かが神兵に、喧嘩でも売ったのだろうか。この下層でも、最近はひときわ生活が苦しいと聞く。敏明と同じような、ボロをまとった者が増えた気がする。
このような理由から神兵に喧嘩を売る者は絶えないが、その代わり代償は重い。腕を折られるなど日常茶飯事、処刑台に一直線なんてのも日常茶飯事。住民が居なくなることはない。上層の名誉は甚だしいこと光の如しだが、下層に落ちる住民も甚だしいこと泥の如し。
「逃げろ! 逃げろ! 殺されちまうよう!」「ママー!」「邪神め、いつか必ず滅ぼしてやぐぎゃあああ!」「てめぇ邪魔だ、何ボーっとつったってやがぁぁぁぁぁぁ!」フェードアウト。
顔だけ上げる。煙が上がっている。目の前を通り過ぎていく、靴、靴、靴。憲兵如きではこんな大移動など起こらない。
肌がひり立つ。異常が、何かの異常が起こっている。
振動が街を揺らした。こどもが転ぶ。リンゴが転がる。じいやが転がる。
敏明は振動の中心へと向かった。
そこには、




