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序章:斑目敏明の場合①

 かつて世界には、荒野の果てという場所があったという。


 草木の一本も生えないそこは、荒れ果てた人と獣が住み、生活どころではなかったという。常に略奪が繰り返され、獣は骨も残さず食い荒らされる。人も然り。


 誰も居ない場所。誰も来ない場所。下層地域、第弐拾六地下水道、詳細不明地区。


 ここも果てという概念に入るんだろうか、と敏明はぼんやり思う。


 狭い部屋には自分しかいない。カビの生えきった壁に更なるカビが生え、もはや黒に黒を重ねた悲惨っぷり。ついでにたまに水道の音。


 下層という大魔境……の、最下層。カビとよく分からないものと酸っぱそうなものが蔓延る廃墟の群れ。世間の荒波に揉まれ、運命に流され、情に乗せられ、ただただ流れ着いた果てというしかない。


 というか住処というものでもない。どこかの誰かが物置として作っただろう、コンクリ石造りの部屋。取り柄は無駄に広いこと。錆びた鉄の棚があること。一応炊事場はあること。なぜかマンホール。ベッドみたいなものはあるものの、ダンボールに包まれたほうが幾分寝起きが良い。


 一日が、ぼんやりと過ぎていく。


 ただ明日も昨日も無く、時間が過ぎていくのを待つだけの部屋。


 聞こえてくるのは水道の音、ネミの走る音、虫のかさつく音。足音。足音。扉の開く音……。


「誰かいる! いた! お願いかくまって!」


 突然の闖入者に、敏明はほんの少しだけ眉を顰めた。どうでもいい。


 ぼんやりと、声が女であること、見た目背が低いこと、髪が赤いこと、服が白いことは分かった。あとは適当に、壁の染みでも数える作業に戻る。


 女が鉄棚の下に潜り込んでも、「うあまたカビがぁ!」と叫ぶ声が聞こえても。


 「ここに女が来なかったか!」と神兵が怒鳴り込んできても。


 「……知らねぇよ」と、一言だけ答える。最後に声を出したのはいつ頃だろう。掠れ、咳き込む。


 神兵は疑わしそうに室内を見回した後、扉も閉めず去って行った。甲冑とコンクリートが擦れる、硬い足音が離れていく。がさごそと布の音。


「い……行った? 行った……よね? あなたはどう思う? ……ちょっと答えてよ、人が聞いてるんだから、キレイな巫女さんが聞いてるんだから! ……ちょっとー? 寝てるの-? あーもう! ウジャムンガ様! こいつに神罰をお与え下さい!」


「いてっ」


 額に何かコツンとしたものが当たった。小石。ほんの欠片。だが、こんなものはこの部屋にはなかった。はずだ。侵入者が物を拾った動作はしていない。本当に神罰か? いやありえない。


「まったく、キレイな女のコが聞いてるんだから答えてよ! ……いや、これだけ騒いでなんともないってことは、もう分かるけどね?」


 彼女はジト目で扉を睨む。溜息。そして自然な動作で肩にかけたカバンに手を突っ込む。


 出てきたのはビール缶だった。


 ビール缶だった。


 シルバーの、一般的な缶。


 「巫女」には不釣り合いすぎる物品だ。


 彼女は自然な動作でプルタブを開け、口を付けると一気に仰ぐ。美味しそうに喉を鳴らし、飲み干していく。

 敏明は目を見開き、その光景を見つめた。自分では全てを捨てたと思っていたが、さすがに堂々すぎる習慣への反逆には心惹かれるらしい。


「んぐっんぐっんぐっ……っぱー! やっぱお酒は最高ですなー! 追われて転がった後の飲酒はうんめー!」


「……お前、な」


 思わず声を掛ける。彼女は「ん?」と敏明を見た。茶色い瞳に敏明が映る。居心地が悪い。あと、思い切り口周りに泡がついている。だが、声を掛けた以上は言葉を続けなければ……こいつうるさそう。


「反逆者か」


 憲兵に追われているとすれば、それしかない。彼女は口元を拭うと、あっけらかんと答える。


「神への反逆だよ!」


「……神」


「私はかつてここで栄えていた、ウジャムンガ神の巫女。その証拠に……あっ、今お酒飲んだから神力使えないんだった! でもまた5分くらいすれば使えるからね! 問題ないわ!」

「……」


 どんな巫女だ。


 神だの巫女だので憲兵が出てくる理由は分からないが、一つだけ分かる。


 関わりたくない。


 絶対面倒なことになる。


 敏明の沈黙もなんのその、巫女は外套の襟に手を入れると、何かを取り出した。

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