血と泥で汚れた自分に
「……来てくれたか」
敏明は腰に挿したナイフを取り出す。人斬りの刃に対抗するには心許ないが、ないよりマシと持ってきた。気を逸らす役割くらいにはなるだろう。
ナイフはあちこちが錆び付いていた。大丈夫か、これ。
「誰だったか。あぁ、這いずっていた男か」
人斬りは心底興味がないように、つまらなさそうに告げる。刃が煌めく。線を映し、夜空のように黒く輝く。
「こんな場所にまで来るとはな。捕縛された後のことを考え取らん、向こう見ずな稚魚め」
煽られている、貶されている。しかし言われるのには慣れた。
「さて。邪魔は消えた。愉しもうか。全てを捨てた剣だ。お前も捨てるが良い。主に命を」
消えたというか、上空へ行ったのだが。
敏明は言った。
「嫌だな……お前みたいな奴から逃げたってのに、また戦う羽目になってやがる」
あの奥に封じている、悪神の影響だろうか。妙に饒舌になっている。人斬りと戦うのは初めてなのに、妙に体が軽い。誰かを傷付けられる、その興奮がふつふつと沸いている。悪の神の力だ。
「弱者め。故に恐れる。俺は克服した。本質に立ち返る事で、弱気も恐怖も、刀に押し込めた」
人斬りが刀を構える。見たことのないが、調和が取れた、美しさすら感じる構え。これから斬られるというのに、その恐れは何もない。
対して、敏明はようやく出したナイフですらうまく持つことが出来ない。何年も持っていない。最後に振りかざしたのは、下層に来てすぐの時だった。
「貴様には迷いがあるの。戦うことも、生きることも。生きることを諦めた。故に、貴様は弱者だ。神の生贄になることすら、生温い」
「……言うな」
生温い、なんて言葉に、頭の芯が熱を持つ。
同時に失望した。どうして生贄なんぞに安堵しているのか。今、その生贄を覆すために、美菜たちは戦っているんじゃないか。
思考が混濁していく。汚濁に塗れていく。
美菜たち。そう、彼女たちだ。彼女たちの事情だ。敏明には関係ない。そうだ、だから、とりあえずお前だけは倒しておく。
「良い顔になった。ようやく。ようやくだ」
人斬りは、笠の下で嗤う。
刃がぶつかり合う音。
敏明はひたすらにナイフを叩き込む。王の崩壊などはしようはずもない。敏明は崩壊しない王、そのために造られたのだから。
「っ!」
刀の一撃が重い。
それでも、意地なら負けない。以前は負けたが、もう退くことはできない。
楽しそうに、人斬りは風を斬る。満たされた者。恩恵を放り投げて満たされる者。立場も地位も恵まれているはずなのに、こうして人を斬ることなどをしている。
ただ一人でいられる存在が、正直羨ましい。恩恵など、要らぬ存ぜぬと断ち切れる存在。
頬に何か当たった気がする。刀だろうか。切れているのだろうか。もう気にする必要は無い。ただ力任せに殴り倒して、相手が死のうと生きようと、殴り倒せばいいのだから。
弱気に負けそうな意志をかき集める。進まなければならない。終わりまで生き延びる。
敏明は、懐に入れた神酒を強く握りしめた。美菜から渡された、ウジャムンガの証。
なるほど、力が湧いてくる気がする。かまどの神。炎の神。小さな力の集合体。
確固たる意志で切り裂くのなら、こちらも対抗するのは意志しかない。技術も身分もなにもない自分では、もはやそれしかない。
自嘲する。久し振りに神に祈る。美菜が飛び込んできてから、久し振りばかりだ。下層に堕とされた時、何よりも恨んだ神、それと同じ存在に、祈ろうとしている。
血と泥で汚れた自分に、祈る価値はあるのだろうか。
暴力は苦手だ。特に振るうのは苦手だ。
とても楽しいから、辛い。
取り返しなどつかないから、嫌いだ。
迷うまでもなく、帰らなければならない。あの場所に帰らなければならない。
それに。母なる家の神ならば、受け入れてくれるはずだ。
帰ったら、せめて、美菜にもうすこし優しい言葉をかけてやろう。ウジャムンガとやらにも何か捧げてやろう。アイスクリームでいいかな。
光が走る。火花が燃え上がる。
その火柱が、人斬りの顔面を捕らえた。大きくバランスを崩し、階段を炎に塗れて堕ちていく。その笠を鷲掴み、藁の飛び出た笠ごと、奈落の底へたたき落とした。
落としてやった。
それだけだ。
斬られた脇腹と足が、呼応するように痛んだ。
けれど、まだ生きている。
息が荒い。頬や手、あちこちが濡れている。汗だろうか。それとも血だろうか。
上空に、黒色の光が散った。雨のように降り注ぐ。
頬を掠める。
我に返る。手を見ると、線が走ったかのような傷が、数え切れないほど着いていた。
大きく息を吐く。座り込む。とてもだるい。久し振りに感情が振り切った。肉体よりも、精神が疲労している。
……暴力は苦手だ。取り返しが付かないほどに、自分の全てを、愚かさを、醜さを、見透かされるから。
「おにいさーん!」
顔を上げる。上空から、衣をはためかせ、美菜が落ちてきていた。




