エメラルド・ジンジャーエール・王の帰還④
二人が去って行く。いきなり一人になった敏明は、おつまみのドロチーズを口に運んだ。乳製品独特のしょっぱい味が、喉まで突き刺さる。ジンジャーエールでも中和できそうにない。黒い塊はまだ二個残っている。
ドロのように黒いチーズだから、ドロチーズ。この環境の悪い場所の、どこに乳牛がいるのか不明だが、とりあえず安く買えるので、下層の定番のおつまみになっている。
「今、一人か?」
声が掛かる。顔を上げると、見知らぬ男性がいた。くたびれたワイシャツに、サスペンダーのついたズボン。
無視する。知らない相手は無視するに限る。
通常ならつれない相手と判断しただろう。しかし、知らない男は図太かった。どっかと右隣の席に座り込む。
「つれないな。お互い飲んでんだろ。愛想よくいこうや。マスター、カクテルを。オレンジジュース多めの奴で」
カウンターの奥から、あいよ、という低い声がした。
黙っていると、男は聞いてもいないのに語り出した。
「カクテルは美味い。下層でも上層でも、どこでも美味い。あ、お前今、俺のことを女々しいとか思ったな? 思ったな? 絶対思った、その顔が語ってる」
「……」
「俺には娘がいるんだがな。そいつがカクテル、この場合は混ぜたジュースな、好きなのよ。特にレモンとオレンジを混ぜたやつ。付き合って飲んでるうちに、そんで、俺もハマっちまった。おっさんだからアルコールの方に。ってワケ」
「……」
聞いている訳では無い。ただ情報として、振動として、敏明の耳を通り抜けていく。
カクテルお待ち、という声と共に、グラスが差し出された。男は美味そうに喉を鳴らし、オレンジの飲料を口にする。
「かーっ、やっぱサイコ-! あ、ところで自己紹介が遅れたな。俺は原口。探偵じみたことをしてるナイスガイだ」
聞き流していると、男……原口はグラスを揺らしながら声を潜めた。
「お前、上層の人間だろ。見たことあるぜ。あんなちっちゃいガキだったのがな」
「……」
眉を顰める。鬱陶しいのが来た。この男は敏明の過去を知っている。といっても、かつて上層にいた者が、下層に堕ちてくることは珍しくない。だが、こうして絡まれると鬱陶しすぎる。
「かわいげがないのは変わってないが、いまや俺と同じ、ナイスミドルじゃねぇ……がほ」
革靴を踏みつけた。穴の開いていそうな、ぼろぼろの革靴だった。
「すまん。足が滑った」
形だけの謝罪を告げると立ち上がる。ジンジャーエールはまだ残っていたが、原口とやらの質問攻めを受ける気はない。
「……俺はこのバーを拠点にしてんだ! 見かけたら、声でも掛けてくれや!」
誰が掛けるか。
といっても狭い店、どこに行こうか悩んだ時、ちょうど美菜が出てきた。
「あら、覗き?」
「覗きはダメですよ、敏明さん! 女の子のお花摘みは、耳をふさいで目を瞑ってないとダメなんだよ!」
「ちげーよ」




